オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(28)なぜ道徳的に拘束されているのか?

「なぜ私は私の国家の主権者の命令に従うべく道徳的に拘束されているのか?」という質問(ホップズにとっては重要である質問)は、「なぜなら私は私と似た苦境にある他の人々と合意して、契約を結ぼうという共通の意向をもって彼に『授権』したのであって、彼が疑う余地なく立法者でありその命令は本当の意味での法律だと知っているからだ」という以外の答を必要としない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 323)

 所謂(いわゆる)「社会契約論」的な考え方なのであろうが、自分と似た境遇にある人達と合意し契約を結ぶなどという話は、私にはただの「空論」にしか思われない。

さらに――と、主張される――国家の法律が本当の意味での法律であるのみならず、国家の中では、ホッブズにとってこの性格を持った法律は国家の法律しか存在しない。教会のいわゆる「法律」も、いわゆる「自然法」も、国家の中では、国法として公布されることによって本当の意味の法律にさせられなければ、そうはならない。それどころか、国家の主権者の命令であるという意味での「国」法でないような、本来の法なるものは存在しない、というのがホッブズの見解である。(同)

 国家が公認したものが「国法」であることに異論はない。よって、「教会法」も「自然法」も国法ではない。が、それは「国法」かどうかの話でしかなく、社会規範として「国法」だけが有効であるというような話ではないことは言うまでもない。

神の法律が本当の意味での法律であるのも、神がその代理人を通じて主権を行使する国家の主権者である場合に限られる。(同)

教会法が本当の意味での法律であるのは、神が代理人を通して主権を行使し、法律を定めたからというような話ではない。信者にとって神は絶対的存在なのであり、教会法も絶対的なのである。それが「信仰」というものである。勿論、「社会契約論」もこの仮説を信じるものだけに有効であり義務的であると言う意味では、半ば宗教的だとも言えるだろう。

国家の主権者はむろん人間の自己保存についての理性的定理としての自然法を「作る」ことはしないが、最も厳密な意味において、それらを本当の意味での法律に「する」のである。たとえば、(神が国家の主権者でないところで)神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返すのが道理にかなっているかもしれない。しかしホッブズにとっては、それはこの2つのおのおのの領域の境界が定められるまでは義務にならないのであり、そしていずれの場合にも、境界決定は国法の行うことである。疑いもなく、国家の中でも臣民は自然権の残りをひきずってはいるだろう。しかしホッブズにとって、自然権は義務ではなく、人が持っている義務とは全然関係がないのである。(同)

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