オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(29)ホッブズの頭の中の世界観

適切に任命された国家の主権者の臣民でなく、従って何ら国法上の義務を持っていない人々は、それにもかかわらず権利と同様に義務も持つ、とホップズは考えたのだろうか?…国法のないところに、本当の意味での法があるのだろうか?(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 323-324)

 が、これらの問いは大して重要な問題ではない、とオークショットは言う。

第1に、ホッブズは野蛮人のためにではなく、国家に属している人々のために書いていたと理解されている。彼の目的は、彼らの義務は何でありそれらがどこから生じているかを示すことである。そして、国法は拘束し、しかも国法だけが拘束する法である、と信ずべき理由を与えたならば、彼にはそれ以上のことをする必要がない。第2に、(我々が今考察している解釈によると)国法の義務が他の法から導き出されるとか、ともかく何かの仕方でそれと結びつけられるなどということは、問題にならない――たとえその別の「法」が、国家状態以外の環境では本当の意味での法であるとわかったとしても。国家の中では、本当の意味での唯一の法は国法なのである。(同、p. 324

 この説明は説得的ではない。ホッブズは、思考の対象範囲を絞り、「合理的」に考えたということなのかもしれない。が、ホッブズの言う「国家」(civitas)とはホッブズの頭の中の「国家」であり、現実の国家ではない。複雑な実態から不確かなものを取り除いて考えるのが合理的手法なのであって、実際には存在しない「架空」の話を恣意的に論理展開して何の役に立つのだろうか。

 「国法」(the law of the civitas)が<唯一の法>であるというのも、ホッブズの頭の中の話であるから当たり前である。

我々が今考慮している解釈にあっては、国家の主権者を構成し彼に権威を与える合意に人々が入ることになる原因は、平和への理性的努力に転換させられた、破滅への恐れである。しかし彼らはそうしなければならぬ義務は全然持っていない。彼らが平和を求めて努力すべき義務は、国家の発生とともに始まる。国法こそがただ1つ正当に法と呼ばれ、この努力を命ずる法である。

 この解釈は(他のいかなる解釈とも同様に)、ホッブズの著作の中の重要な個所についてのある読み方に依存している。そして関係する個所のすべてに注意を向けなくても、次のことを指摘しておいてよいだろう。第1に、これは『リヴァイアサン』の中でホッブズが国法の主権とでも呼べるものを主張している個所の唯一理解可能な解釈と考えねばならないものに依存している。そして第2に、この解釈によると、「彼の命令は、彼に従うように前から強いられている者に向けられる」という表現(ホッブズが本当の意味での立法者を定義するのに用いた表現)は「彼を主権者たる立法者の地位につけるようすでに約束したか、あるいはそれ以外の方法で彼を立法者として承認あるいは認定した者」を表していることになる。(同、pp. 324-325

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