オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(33)あらゆる人々に義務を課す自然法
ホップズにとって「平和を求めて努力する」とは常に特定の行為を遂行することであり(そして単に平和を好む意向を持つとか全体として平和的な性向を持つというだけではない)、ある方向への傾向があるとはその方向に向いた運動をすることだ…そして、誰でも狂人か子供でなければ、人間の生の平和的条件を促進すると期待しうる行為の一般的なパターンを理性のおかげで知ってはいるが、特定の状況においていかなる行為が平和の条件のために必要かを決め、それを義務として課するのは法の領分に属する。
「平和を求めて努力すること」が義務であるとき、常にそれは法律に従うべき義務なのであり、常に法律は特定の行為の命令と禁止の集合なのである。だから、平和を求めて努力する義務は、法の指図する行為を遂行する義務と区別できない。人は同時に「平和を求めて努力しつつ、法の禁ずることをすることはできない。もっとも彼は法が彼に要求していない行為――たとえば情深くあること――によって平和を求めることはできる。しかし彼が「平和を求めて努力する」義務は、法に従うべき義務である。つまり、行いを正しくするとともに罪を犯さない義務なのである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、pp. 327-328)
ホップズはしばしば「自然法」について書いており、しかもあたかもそれらが本当の意味での法律で、平和を求めて努力する「自然の義務」をあらゆる人々に課することができるかのように書いている。そしてこのことを無視したホップズ道徳理論の説明はもっともらしくない。――これもまた、たやすく片づけることのできない反論である。
確かにホップズは、自然法は本当の意味では全然法律ではないと繰り返して明瞭に断言している。その例外は、自然法が契約または承認によって権威を有する立法者の命令として現われる場合だけである。これを除くと、自然法は平和の条件に属する行動を「示唆する」自然の理性の、「人々を平和と秩序に向ける性質」、「指示」、「結論」、「定理」であり、従って国家の理性的(しかし道徳的ではない)基盤であるにすぎない。
だがこれらの断言には他の断言も伴っている。それらは、自然法はそれ自体で(支配者を含む)あらゆる人々に義務を課すると言っていると解釈することができる。それどころか、臣民が自分の国の法律に従うべき義務は臣民がこれらの自然法のうちの何かの下で負う義務に起因している、と言っているとさえ解釈しうる。(同、p. 328)
漸(ようや)くにして話が本題に入ってきたようだ。<自然法はそれ自体で(支配者を含む)あらゆる人々に義務を課する>、詰まり、「法の支配」という問題である。
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