オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(41)自然法は自然に知られるものではない
「理性」(それはホッブズにとっては、所与の出来事の蓋然(がいぜん)的原因や所与の行為や運動の蓋然的影響を認識する能力であって、「(事実についてのではなく)帰結についての真実を納得させる」のに役立つものである)はそれ自体としては、定言命令(=無条件に「~せよ」と命じる絶対的命法)を供給したりそれを確認する手段となったりすることはできない。それなのに、平和を求める努力は正当な権利から発した命令であり、従ってそれに従うべき義務を人に課するということを、人はいかにして「正しい理性の指示によって」知りうるのか? 神はいかにして人類に対して「自然の理性の指示」の中に「彼の法律を宣言する」(法律としてであって、単に定理としてでなく)ことができるのか?
そしてこれらの質問に対する答えは明らかである。「理性」の性質についてホッブズの見解を持っている人ならば、誰一人として神にそんなことができるとは考えられない。そしてもし神にそれができないとしたら、自然法は人々に知られておりそれも神の法であると知られているから、本当の意味での法であって全人類に義務を課する、という観念全体が崩壊する。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 334)
<自然法>を知っている人々、そしてその創造者が<神>であることを承認している人々は、限定的なものであって人類全体ではないということである。
ホッブズは自然法は自然的に知られており、本当の意味での法律として、平和を求めて努力する義務を全人類に課すると考えていた、と彼が我々に考えさせるような個所は疑いもなく存在する。彼は「自然の義務」について語ることをあえて避けたりはしなかった(もっとも彼は「自然の正義」という表現は認めなかったが)。そしてあとで我々は、なぜホッブズが我々にそのように考えさせようとするのかを考慮しなければならないだろう。だがまた次のことも疑う余地はない。ホッブズ自身の「理性」の理解によれば、我々が正当に考えることが許されるのは、人間の自己保存についての定理の集合としての自然法はそのようにして全人類に知られているということである。
すると「自然の理性」に言及した、これらの疑いの余地なく暖味な表現を除くと、ホッブズの著作の中には何の証拠もない以上、自然法は本当の意味での法ではないし、平和を求めて努力する義務は全人類にも、また神のいわゆる「自然的」な臣民にすらも、自然的には知られていない、と我々は結論せざるをえない。(同、pp. 334-335)
平和を求めて努力する義務が全人類に承認されてはいないのは言うまでもないが、神の自然的な臣民ですらも、自然に知覚されるものではないということである。
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