オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(37)限定されたる神
しかしながら、「神」という名前は別の意味あいをこめて使うこともできる。そこでは神は、「国王」であるとか自然的な王国と自然的な臣民を持っているとかが本当の意味において言える。神は、「世界を治め、人類に戒律を与え、報償と刑罰とを提出する神が存在すると信ずる」人々の上に立つ其の支配者である。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 331)
「神」を宗教的存在としてではなく、政治的側面において捉え直そうという試みなのではないかと推察する。
しかしこれについては、2つのことを見て取らねばならない。
第1に、これらの信念は自然的な知識には達していない。後者は(この関係では)、万能の第1原因として神を仮定せざるをえない、ということに限られている。「摂理を働かせる」神も、第1原因である神と同様に人間の思考の「投影」である。ただし第1原因は人間の理性の投影だが、摂理を働かせる神は人間の欲求の投影である。
そして第2に、「摂理を働かせる」神についてのこれらの信仰が全人類に共通ではないことははっきりと認められているから、神の自然的な臣民(すなわち、その命令に従うべき義務を持つ人々)は、人間の行いについての神の「摂理」を認め、その報償を望み刑罰を恐れる人々だけである。(同、p. 331)
人間の欲求は、「場」に規定される。したがって、人間の欲求が投影された「神」という存在も、環境によって自ずと色合いが異なり、相対化せざるを得ない。
(…ホッブズは神の自然的臣民と契約による臣民とを区別しがちだったが、この状況はその区別を和らげる。「神の王国」という表現が適切に理解されるのは、それが「(それに従うべきだった人々の合意によって)彼らの国家的統治(Civil Government)のために設立されたコモンウェルスを指すために使われるときだけである。」)(同)
ホッブズにとって、平和を求めて努力すべき義務を課する法律の創造者としての神は、全人類の統治者ではなく、神をこの性格において承認し、従って神をその法律の創造者として知っている人々だけの統治者である。そしてこの承認は「信仰」の問題であって、自然的知識の問題ではない(同、p. 332)
<平和を求めて努力すべき義務を課する法律>は、法律の創造者としての「神」を承認する人々の間だけに限定される。ここに、法律を守る義務を課すのは、「契約」なのか、それとも、「信仰」なのかという新たな問題が発生するのである。
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