オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(25)ホッブズ解釈の揺れ

 第1に、「なぜあらゆる人々は平和を求めて努力すべきなのか?」という問いに対してここで与えられた答は、それ自体が問いを引き起こす。我々はなぜいかなる人も自分自身の本性を保全するためにだけ努力すべき義務を持っているのかを知りたい。この立場全体は、ホッブズはいかなる人も自分の破滅をもたらすおそれのない仕方で行動する義務があると考えていた、という信念に基づいている。ところがホッブズが言ったのは、いかなる人も自分自身の本性を保全する権利を持っているということ、そして権利は義務でないし、いかなる種類の義務も生じさせないということである。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 320

 一般に、戦争状態になければ、人は平和を求めて努力などしない。が、戦争状態は、ホッブズの頭の中で作り出された「自然状態」における話でしかない。もし平和を求めて努力しなければ「戦争状態」に舞い戻ってしまうなどと考えるとすれば「強迫症」である。

 <いかなる人も自分自身の本性を保全するためにだけ努力すべき義務を持っている>というのも空想である。当たり前だが、誰もそのような努力義務など負っていない。権利と義務は表裏一体のものであり、権利無き所に義務はない。オークショットは、義務ではなく<いかなる人も自分自身の本性を保全する権利を持っている>と言う。が、権利があるなら、その裏返しとして義務が生じてもおかしくない。

第2に、義務的行動は「一貫した」、あるいは自己矛盾的でない行動であるという意味で合理的であり、そしてそれはこの意味で(あるいは他のいかなる意味でも)合理的だから義務的である、ということをホッブズが言っているとする解釈は、的外れと考えられなければならない。ホッブズが行動において望ましいものを表すために「無矛盾」の原則に訴えかけたことはあるが、彼は単に合理的であるにとどまる行動と義務的である行動とをはっきりと区別しているといって差し支えない。自然法は合理的行動を表現しているから義務的と考えられる、などというホッブズ解釈は全く説得的でない。

第3に、この解釈は、道徳的行動をあらゆる他者を自分と同等の者として私心なく承認することとしては認めない。しかしホップズはそれが平和のために根本的であると考えた。この解釈によると、平和を求めるあらゆる努力は、いくら利己的であっても等しく正しいということになってしまう。

そして最後に、この説明には、正しいと言われる行動の原因とそれを正しいと考える理由との混合がある。というのも、恥ずかしい死への恐れと嫌悪は、われわれが平和を求めて努力すべき義務を持っている理由ではないからである。そしてもし(ホッブズがしたように)恐れと誇りの仲介者として「理性」を加えるとしても、我々はいまだに原因の領域から正当化の領域への逃走に成功していない。なぜなら「理性」はホップズにとって(彼が誤解の余地なく曖昧な態度をとっている場合を除いて)何ら指図の力を持っていないからである。要するに、ホッブズがこれ以上のことを言っていなかったとしたら、彼はそもそも道徳理論を持っていたと考えることはできない。(同、pp. 320-321

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