オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(36)絶対的先了解たる「神」

これらの原因を前へ前へとたどっていくと、我々は「1つの最初の運動者がいる、そしてそれは万物の第1の、永遠の原因であり、人々が『神』の名で意味するところのものである、という考えに達する」しかない。(オークショット「ホッブズの著作における道徳的生」(勁草書房)、p. 330)

 西部邁氏は言う。

《了解はいかにして可能か、了解のためにはそれに先立つ先了解がなければならない。先了解はいかにして可能か、それに先立つ先々了解がなければならぬ。といったふうに、了解自身が無限遡及(そきゅう)のなかに放り込まれるのであるが、幸か不幸か、人間の生は有限である。知識人の生であれ誰の生であれ、有限の生を死へ向かって突き進ませていく過程である。それゆえ人間は、死を予感しながら、了解に先立つ先了解を求めるという思考プロセスをどこかで打ち止めにせざるをえない》(西部邁『知識人の生態』(PHP新書)、pp. 102-103

 ということで、絶対的「先了解」として「神」が登場することになるわけである。が、本来は絶対的であるはず神もまた自と他の相対性を免れない。

《仮説-形成の手続を論理化しなければ、人間・社会にかんする言説は経験とのつながりを失うほかない。ところが、表現者は、面目そうな前提を思いつくに当たって、自分がどれほど鋭い直感を発揮したかを自慢している。あるいはそうした直感に達するまでに、自分がどれほど重い人生体験を味わったかというようなことを吹聴(ふいちょう)している。たとえば、積年にわたる学問的苦労の挙句(あげく)に、新しい発見の糸口を夢のなかで不意に知らされたというふうにである。

 なるほど、特定の表現者においてみれば、真理はいつもそのように神の啓示めいた訪れ方をするものなのであろう。しかし人間・社会にかんする言説において生じているのは、あたかも多神教の世界におけるように、互いに異なれる啓示がいくつも神々から下されているという事態である。そして実証作業によっては、どの神が偉くてどの神がさほどでもないのかを識別することができないという有様になっている》(西部邁『知性の構造』(角川春樹事務所)、p. 72

 このように、世の中には、安易に優劣を付けることを許さぬ複数の「神」が存在し、ある1つの「神」を絶対視することは出来ない。が、ここでは一旦「神」を絶対的なものと仮定して、話を先へ進めることとしよう。

すると、我々がまず第1に自然的な知識を持っていると言われるのは、必要な仮説としてのこの神である。そしてこの神の全能(彼の第1原因としての「支配」は不可逆で絶対的である)のために、我々は神を「大地全体の王」として、また大地を神の自然的な王国として、また地上のあらゆるものを神の自然的な臣民として語ることができる。しかしもし我々がこのように語るとしても、我々は「国王」とか「王国」とかいったことばを単に比喩的な意味で使っているにすぎないことを承認しなければならない。(同、pp. 330-331

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