オルテガ『大衆の反逆』(13) 自由主義的デモクラシー
手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。かかる煩雑さはいったい何のために創り出されたのだろうか。これらすべては他ならぬ「文明」(civilización)という言葉に要約されるものであり、チヴィス(civis)―市民―なる概念のなかにその本来の起源をもっているのである。つまり、そうした煩雑さのすべてをもって、市(ciudad)、共同体、共存を可能たらしめようというわけである。したがって、今わたしが列挙した文明の道具の一つ一つをその内部から眺めてみれば、まったく同一の核をもっていることを発見するであろう。これらすべては、各人がもっている他のすべての人を頼りにしたいという根本的・漸増(ぜんぞう)的な欲求を前提としているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 106)
社会には、秩序を保つための掟(おきて)が必要であり、社会が高度化するにつれ、より高度な決まり事が必要となる。「文明」とは、洗練された(sophisticated)原理を有した社会のことである。
文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。(同、pp. 106-107)
考え方の異なる人達が<共存>するための規範作りが文明化というものであり、逆に、自分の考え方をただ相手に強制しようとするのは野蛮化である。
政治において、最も高度な共存への意志を示したのは自由主義的デモクラシーであった。自由主義的デモクラシーは、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものであり、「間接行動」の典型である。自由主義は、政治権利の原則であり、社会的権力は全能であるにもかかわらずその原則に従って自分を制限し、自分を犠牲にしてまでも、自分が支配している国家の中に、その社会的権力、つまり、最も強い人々、大多数の人々と同じ考え方も感じ方もしない人々が生きていける場所を残すよう努めるのである。(同、p. 107)
共存のために編み出された制度が<自由主義的デモクラシー>なのである。それは「権力」および「格差」が過剰とならないための自己抑制に他ならない。が、政治には権力が必要であるし、自由な活動によって格差も生じる。「平等主義」のように権力や格差そのものを否定視してしまっては自由がなくなり社会の推進力が失われてしまう。
自由主義とは至上の寛容さなのである。われわれはこのことを特に今日忘れてはならない。それは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かつて地球上できかれた最も気高い叫びなのである。自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。(同)
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