オルテガ『大衆の反逆』(20) 全体主義への道

革命によって市民階級は社会的権力を掌握した。そして、彼らは彼らのもっている否定しえない美徳を国家に応用し、わずか一世代足らずで強力な国家をつくりあげ、一連の革命の息の根をとめてしまったのである。1848年以後、つまり、市民階級による支配の2世代目が始まってからというもの、ヨーロッパには真の意味での革命は起こっていない。それは革命のための動機がなかったからというのではなく、その手段がなかったからである。社会的権力と社会の力とが均衡した。革命は永遠に姿を消したのである。ヨーロッパに起こりうるのはもはや革命とは逆のもの、つまり、クーデターのみとなった。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 168)

 デモクラシーが広がるにつれ、政治体制の抜本的転換を図ろうとする革命熱は冷めていった。また、社会主義国家建設が画餅(がべい)に帰し、イデオロギーの転換を求める<革命>ももはや時代錯誤となった感がある。残ったのは政権奪取を図る<クーデター>だけだということである。

今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である。すなわち、人間の運命を究極的に担い、養い、押し進めてゆくあの歴史的自発性の抹殺である。大衆がなんらかの不運を感じるか、あるいは単に激しい欲求を感じる場合、彼らにとっての大きな誘惑は、ただ一つのボタンを押して強力な機械を動かすだけで、自分ではなんの努力も苦闘もせず、懐疑も抱かなければ危険も感じずにすべてのものを達成しうるという恒久不変の可能性をもつことである。(同、pp. 169-170

 国家に権力を集中させ、それを用いて個人の自由を制限し抑圧しようとするのは、「全体主義」そのものである。また、<大衆>以外の存在を認めない不寛容な姿勢も「全体主義」に通ずるものがあると言ってよいだろう。つまり、大衆社会は「全体主義」的傾向をもつということである。我々はそのことに十分注意しなければならない。

ヨーロッパ文明は…自動的に大衆の反逆を生み出した。そして、この大衆の反逆は、表面から見れば、楽観的な様相を呈している。すなわち…大衆の反逆とは、人間の生がわれわれの時代にいたって経験した驚異的な成長そのものに他ならない…しかしその裏側は実に恐ろしい様相を呈している。すなわち、裏面から見た大衆の反逆とは、人類の根本的な道徳的退廃に他ならない(同、p. 179

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