オルテガ『大衆の反逆』(18) 犬儒主義者

紀元前3世紀ごろ、地中海文明がその絶頂点に達するとすぐに、犬儒(けんじゅ)主義者が現われた。ディオゲネスは泥まみれのサンダルをはいてアリスティブスの絨毯(じゅうたん)の上を歩いた。犬儒主義者はどの街角にもどの階層にもいるという人物像になってしまった。ところで、彼らがやったことは、当時の文明をサボタージュすることに他ならなかったのである。彼らはヘレニズムの虚無主義者だったのだ。彼らは、何も創造しもしなかったし、何も成しはしなかった。彼らの役割は破壊であった。というよりも破壊の試みであったというべきであろう。なぜならば、その目的さえも達成しえなかったからである。文明の寄食(きしょく)者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないだろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 148-149)

※「犬儒」:kynikos(「犬のような」の意)の訳語。 古代ギリシアの哲学者シノペのディオゲネスがみすぼらしい身なりで町をさまよい歩き、樽を住居として「犬のような生活」を送ったことからいう(『精選版 日本国語大辞典』)

 <大衆>は、謂(い)わば犬儒主義者、虚無主義者、文明の寄食者のような存在ではないかということだ。

文明世界は平均人の能力に比較して、過剰、過度の豊かさ、余剰の様相を示すにいたったのである。そのほんの一例をあげれば、進歩―すなわち生にとっての便益の不断の増大―が約束するかに見えた安全さは、平均人に偽りの、したがって怠惰に誘(いざな)う悪弊のある自信を与える結果となり、平均人を堕落させてしまった(同、p. 150

 <大衆>の堕落は二義的な問題である。看過(かんか)できないのは、<大衆>が社会の真ん中にしゃしゃり出てきたことである。

専門家は自分がたずさわっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく「識(し)っている」が、それ以外の部分に関しては完全に無知なのである。(同、p. 159

かつては、人間は単純に、知識のある者と無知なるもの、多少とも知識がある者とどちらかといえば無知なるものの二種類に分けることができた。ところが、この専門家なるものは、そのいずれの範疇(はんちゅう)にも属しえないのである。彼は、自分の専門領域に属さないことはいっさいまったく知らないのだから、知者であるとはいえない。しかし、かといって無知者でもない。というのは彼は「科学の人」であり、彼の領域である宇宙の小部分はよく知っているからである。われわれは彼を知者・無知者とでも呼ばねばなるまい。これはきわめて重大な問題である。というのは、この事実は、彼は、自分が知らないあらゆる問題において無知者としてふまるうのではなく、そうした問題に関しても専門分野において知者である人がもっているあの傲慢さを発揮するであろうことを意味しているからである。(同、pp. 159-160

 自分の知らないことには口を挟まない。かつてはそれが礼儀であった。が、昨今の<専門家>は、自分の知らないことにまで偉そうに高説(こうせつ)を垂れる。そして誰も咎(とが)めはしない。それが大衆社会における予定調和となってしまっているのである。

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