オルテガ『大衆の反逆』(12) 文化なき野蛮
今日では、平均人は宇宙に生起するすべてのこと、そして、起こるべきすべてのことに関して、最も限定的な「思想」をもっている。それだからこそ、彼らは聴くべき耳を失ってしまった。自分の中に必要なもののすべてをもっているのに、他人の言葉に耳を傾ける必要がどこにあろう。彼らにとってはもはや傾聴すべき時は過ぎたのであり、今や判定し、裁定し、決定する時なのである。大衆人が、彼ら本来の視覚も聴覚ももたぬ姿で介入してきて、彼らの「意見」を強制しない問題は社会的な生の分野にはもはや一つもなくなっているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 100-101)
<大衆>が抱く「思想」は、野球の推(お)し球団のようなものであって、それが邪(よこしま)だなどと言われるのは大きなお世話なのである。「平等」が好きだという人間に「平等」が間違っていると言っても無駄である。<大衆>が例えば「平等」が好きということ自体はとやかく言うことではない。それこそ「思想・良心の自由」である。問題は、<大衆>が自分の好きなものが「絶対」であるかのように他の人たちに押し付けてくることである。他の人たちにも「平等」を強制するのは「自由」の範囲を超えてしまっていよう。
思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。そうした規則こそ文化の原理なのである。その規則がどういう種類のものであってもかまわない。わたしがいいたいのは、われわれの隣人が訴えてゆける規則がないところに文化はないということである。われわれが訴えるべき市民法の原則のないところには文化はない。議論に際して考慮さるべきいくつかの究極的な知的態度に対する尊敬の念のないところには文化はない。人間がその庇護のもとに身を守りうるような交通制度が経済関係を支配していないようなところには文化はない。美学論争が芸術作品を正当化する必要性を認めないところに、文化はないのである。
こうしたものすべてが欠如しているところには文化はないのであり、そこにあるのは最も厳密な意味での野蛮(barbarie)である。そしてこの野蛮こそ…実は大衆の漸進的蜂起(ほうき)によって、ヨーロッパを支配し始めている状態なのである。(同、pp. 101-102)
文化は複雑な言葉であり、ここで言うところの<文化>とはむしろ「文明」と言った方が良いようにも思われるのだけれども、いずれにせよ、規範や規則といった「共通了解」が整備されていない社会は<野蛮>と呼ばれても仕方がないことだけは確かであろう。
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