オルテガ『大衆の反逆』(26) 生の原理

生というものは、われわれがその生の行為を不可避的に自然的な行為と感じうる時に初めて真なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 260

 手元に別訳が2つある。

ある行為が偽りないものと言えるのは、われわれがその行為を不可避的に必要なものと感じるときだけである。(『オルテガ著作集 2』(白水社)桑名一博訳、p. 243

われわれが、なんらかの生の行為がどうしようもないほど必要であると感ずるとき、はじめて生存のなかに真実がある。(『世界の名著 68』(中央公論社)寺田和夫訳、p. 568



 今回は最も手頃ということで「ちくま学術文庫」版を底本としたが、見ての通り訳は三者三様である。よって、あまり訳文やその用語自体に拘(こだ)っても仕方がないわけであるが、ここでオルテガが言いたいことは、「偽りのない行為とは、まさに必然と感じられる行為だけだ」ということであろう。だから、

今日、自己の政治的行為を不可避的な行為と感じている政治家は一人もいないし、彼の身振りが極端であればあるほど彼の自覚は薄く、より軽薄で、運命に要求されている度合いが少ない。不可避的な場面から成り立っている生以外に、自己の根をもった生、つまり真正な生はない。それ以外のものは、すなわちわれわれが手に取ったり、捨てたり、あるいは他のものと取りかえたりしうるものは、虚構の生以外のなにものでもない(オルテガ、同)

ということになるわけである。

 すべての人々が、新しい生の原理を樹立することの急務を感じている。しかし―このような危機の時代にはつねに見られることだが―ある人々は、すでに失効してしまった原理を、過度にしかも人為的に強化することによって現状を救おうと試みている。今日われわれが目撃している「ナショナリズム」的爆発の意味するところはこれである。もう一度繰り返していうが、いつの時代にもこうであったのである。最後の炎は最も長く、最後の溜息(ためいき)は、最も深いものだ。消滅寸前にあって国境―軍事的国境と経済的国境―は、極端に過敏になっている。(同、pp. 261-262

 今まさに<生の原理>の転換期にあり、従来の原理が「断末魔」を迎えているという認識なのであろう。オルテガは、この危機的状況について別著で次のように述べている。

《人間を惑乱し、翻弄(ほんろう)し、平衡(へいこう)と方位を奪いとるこのような例外状態は、人間を容易に最善のことへも最悪のことへもみちびき、まず両者の区別をまったくできなくしてしまう。これは、まったく当然のことである。というのは、生自体がわけのわからぬものになってしまい、もろもろの偽りの前提が時代を支配しているからである。人間が自分自身を見失ったというだけで五里霧中のなかに迷いこむときに危機が発生するのだという事実を、忘れないでおこう。それゆえ、このような時代には、きわめていかがわしい人びとの群が跳梁(ちょうりょう)し、いかさま師と偽善者が跋扈(ばっこ)する。そして、最も痛ましいことは、ある人間が誠実であるかどうかがもはやわからなくなることである。にごった、陰鬱な時代である》(「危機の本質」:『オルテガ著作集 4』(白水社)前田敬作・山下謙蔵共訳、p. 194



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