オルテガ『大衆の反逆』(21) 世論の支持

支配とは権威の正常な行使である。それはつねに世論に支えられているものであり、この事実は今日も1万年前も、イギリス人の場合もブッシュマンの場合も変わりないのである。いまだかつて、世論以外のものに支えられて支配を行なった者は地球上には1人もいないのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 181-182)

 <支配>とは、他者を自分の権力下に置くということである。が、それは必ずしも有無を言わさずとか無理矢理とかということを意味するわけではない。それどころか、<支配>は<世論>に支えられてはじめて成り立つのである。

創造的な生は、厳格な節制と、高い品格と、尊厳の意識を鼓舞する絶えざる刺激が必要なのである。創造的な生とは、エネルギッシュな生であり、それは次のような2つの状況下においてのみ可能である。すなわち、自ら支配するか、あるいは、われわれが完全な支配権を認めた者が支配する世界に生きるか、つまり、命令するか服従するかのいずれかである。しかし服従するということはけっして忍従することではなく―忍従は堕落である―その逆に、命ずる者を尊敬してその命令に従い、命令者と一体化し、その旗の下に情熱をもって集まることなのである。(同、p. 208

 命令者の支配下に自ら入るのか、入らされるのかで意味合いは大きく異なる。命令者に自ら進んで参与すればこそ<創造的な生>を生きることが出来る。嫌々支配下に組み込まれるようでは<生>のエネルギーは解放されることはない。

今日の議会の権威失墜は、議会の有する明白な欠点とはなんの関係もない。それは、政治的道具としての議会とはまったく無関係な別の世界の理由からきているのである。つまり、ヨーロッパ人が、その道具を何に使うかを知らないこと、伝統的な社会的な生の諸目的を尊重しなくなっていること、一言でいえば、ヨーロッパ人が自分が登録され閉じこめられている国民国家に希望を抱かなくなっていることに由来しているのである。(同、p. 213

 <議会>は今や、国民間の問題を調整し、国民国家を前進させるための「アリーナ」(討議の場)ではなくなり、<大衆>の意見を形式的に追認する場(トポス)と化している。そこに<権威>などあろうはずがない。

かくも有名な議会軽視を少し注意深く分析してみれば、大部分の国において、市民がもはや自分の国家に尊敬の念をもっていないことが分かるだろう。したがって国家の制度の枝葉末節を別のものに置き代えても意味をなさないだろう。なぜならば、尊重されていないのは制度ではなく国家そのものであり、国家はあまりにも小さくなってしまったからである。(同)

 自意識が肥大化し「夜郎自大」となった<大衆>は、もはや国家を尊重するなどという「しおらしさ」は微塵も感じられなくなってしまった。が、オルテガは言う。

国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる1つの社会形態ではなく、人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものなのだ(同、p. 220

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