オルテガ『大衆の反逆』(19) 分を弁えぬ自惚れ屋

彼(=専門家)は、政治、芸術、社会慣習あるいは自分の専門以外の学問に関して、未開人の態度、完全に無知なる者の態度をとるだろうが、そうした態度を強くしかも完壁に貫くために―ここが矛盾したところだが―他のそれぞれの分野の専門家を受け容れようとはしない。文明が彼を専門家に仕上げた時、彼を自己の限界内に閉じこもりそこで慢心する人間にしてしまったのである。しかしこの自己満足と自己愛の感情は、彼をして自分の専門以外の分野においても支配権をふるいたいという願望にかりたてることとなろう。かくして、特別な資質をもった最高の実例―専門家―、したがって、大衆人とはまったく逆であるはずのこの実例においてすら、彼は生のあらゆる分野において、なんの資格ももたずに大衆人のごとくふるまうという結果になるのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 160)

 <専門家>は、専門分野においては秀でているが、専門外については他と変わらぬ凡人である。にもかかわらず、専門外のことまで自信満々に弁舌(べんぜつ)を振るう。それだけなら只の厚顔無恥で済まされるのかもしれないが、大衆化した<専門家>は、他者の意見に対し聞く耳を持たない。専門家の意見であっても聞き入れない。<専門家>は、専門外のことに関しては知識がないために、好きか嫌いかで判断してしまう。だから他者の意見を聞き入れる余地がない。

今日、政治、芸術、宗教および生と世界の一般的な問題に関して、「科学者」が、そしてもちろん彼らに続いて医者、技術者、財政家、教師等々が、いかにばかげた考え方や判断や行動をしているかは、誰でも観察しうるところである。わたしが大衆人の特性として繰り返し述べてきた「人の言葉に耳を貸さない」、より高度の審判にも従わないという傾向は、まさにこの部分的資質をもった人間においてその極に達するのである。今日の大衆支配の象徴であるとともに、その大部分を構成しているのが彼らなのである。(同、pp. 160-161

 <科学者>は、自分の専門内においては科学者足り得るが、専門外においては一般人と何ら変わるところがない。科学は客観的なものでなければならないはずだが、専門外における<科学者>の発言は、科学者の仮面を被(かぶ)ってただ自分の主観を巻き散らしているだけである。専門内における「自信」が専門外にも応用されてしまうのである。自分が考えていること、言っていることは正しいと信じて疑わない。そうなってしまっては、もはや分を弁(わきま)えぬ自惚(うぬぼ)れ屋でしかないだろう。

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