オルテガ『大衆の反逆』(22) 国民国家
国民国家(ナショナル・ステート)の秘密は、国民国家を国民国家たらしめている独自の原動力、つまりその政治そのものに探し求めるべきであり、生物学的もしくは地理学的な性格をもった他の無縁の原理に求めるべきでない(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 242)
欧州の<国民国家>は複雑である。海に囲まれ、大陸から隔離された日本とは随分心象が異なるだろう。国家とは1つの言語、1つの宗教、1つの文化といった感覚が日本人には強い。が、欧州の<国民国家>は、複数の言語・宗教・文化が入り混じっている。つまり、これらの要素で国境を線引きすることが困難なのである。よってオルテガは<政治>そのものに境界を求めるべきだと主張するのである。
国民国家とは―この言葉が1世紀以前も前から西欧において示している意味においては―社会的権力とそれによって支配されている集団との「原質的一致」を意味するのである。
国家とはその形態がどういうものであろうと―原始的、古代的、中世的、近代的を問わず―つねに、ある人間集団がある事業を共同で行なうために他の人間集団に対して行なう招請である。この事業は、その中間的な手続きがいかなるものであっても、最終的には、ある種の共同生活の型を創り出すことにある。(同、p. 243)
戦前の日本も<共同事業>を遂行しようと朝鮮を併合した時代があった。この事業は日本が大東亜・太平洋戦争に敗北したことにより終わりを迎えたが、文化や言語の異なる人達が目標を掲げ1つとなり協働することの難しさが嫌と言うほど分かった事例であった。米国に対抗する1つの極を作るべく創設されたEU(欧州連合)も今、艱難辛苦(かんなんしんく)に喘(あえ)いでいる。
《過去においては共有すべき栄光と悔悟の遺産、未来に向けては実現すべき同一のプログラム。ともに苦しみ、喜び、望んだこと、これこそ、共通の税関や戦略的観念に合致した境界線以上に価値あるものです。これこそ、種族と言語の多様性にもかかわらず、人々が理解することです。いま私は、「ともに苦しみ」と申しました。そうです、共通の苦悩は歓喜以上に人々を結びつけます。国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値のあるものです。というのも、哀悼は義務を課し、共通の努力を命ずるのですから。
国民とは、したがって、人々が過去においてなし、今後もなおなす用意のある犠牲の感情によって構成された大いなる連帯心なのです。それは過去を前提はします。だがそれは、1つの確かな事実によって現在のうちに要約されるものです。それは明確に表明された共同生活を続行しようとする合意であり、欲望です。個人の存在が生命の絶えざる肯定であると同じく、国民の存在は(この隠喩をお許し下さい)日々の人民投票なのです》(エルネスト・ルナン『国民とは何か』(インスクリプト)鵜飼哲訳、pp. 61-62)
せっかくの考えが最後の1文で台無しである。<日々の人民投票>とは猫の目のように変化する「感情」の表出であろう。この「感情」に左右されるというのでは、<国民の存在>など有って無きが如きものでしかない。「感情」以外の何かもっと確かなものがなければ共同生活を継続することなど不可能である。
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