オルテガ『大衆の反逆』(17) 運命

運命というものは、われわれが好んでこうしたいということにあるのではなく、むしろ、したくないことをしなければならないというわれわれの自覚において、その厳しい横顔をはっきりと現わすものなのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 146)

 <運命>を考えるにあたっては、したいかしたくないかという好悪の問題としてではなく、しなければならないという義務・責務の問題として考えるべきであろう。東洋思想の大家・安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏は、<運命>について次のような解説をなされている。

《我々の存在、我々の人生というものは一つの命(めい)である。その命は、宇宙の本質たる限りなき創造変化、すなわち動いてやまざるものであるがゆえに「運命」というのであります。「運」というのは「動く」という字であり、ダイナミックを意味します。ところが普通は、「運命」ということをそう正しく学問的に解釈しないで、きわめて通俗的にこれを誤解して、運命を我々の決まりきった人生の予定コースと解している。何年になったら病気をする、何年何月何日には火事に遭う、来年の正月には親が亡くなる、あなたは四月になったら転任するだろうと、というようなことを運命だと思っているが、そういうものは運命ではなくて「宿命」である。宿はヤドであるから泊まる、すなわち固定的・機械的な意味を持つ。運命は運命であって、どこまでもダイナミックなものであって、決して宿命ではない、またメカニカルなものではない》(安岡正篤『運命を創る』(プレジデント社)、p. 123

《命というものは絶対的な働きであるけれども、その中には複雑きわまりない因果関係がある。その因果律を探って、それによってその因果の関係を動かして新しく運命を創造変化させていく、これが「道」というものであります。あるいは、命という字を使えばそれを「立命」という。この複雑な数(すう)を知ることは「知命」であります。命を知って、これによって我々が自分というものをリクリエートしていくのが立命であります。

 だから、我々の運命というものは、本質的に見ればこれは絶対であり、これを主体的に考察すれば自由である。客観的には絶対であり、主体的には自由である》(同、p. 125


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今日は「風潮」の時代であり「漂流者」の時代である。芸術といわず、思想といわず、政治といわず、はたまた社会慣習といわず、あらゆるものの中に吹き荒れている皮相的な旋風(せんぷう)に対して抵抗する人はほとんどいない。(オルテガ、同、p. 148

 <大衆>の感情からなる世論(せろん)は猫の目のようにころころ変わる。だから、一々世論に腹を立てても詮無きことである。が、放置しておいて済む話でもない。多勢に無勢と言うけれども、時流に抗(あらが)う人の存在は貴重である。

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