オルテガ『大衆の反逆』(16) 歴史に学ばぬ人達
ポルシェヴィズムとファシズムも、この本質的な後退の明瞭な2つの例である。わたしがそれらを本質的な後退というのは、彼らの教義の内容を指していっているのではない。その内容をそれなりにとりあげてみれば、当然ながら一片の真理をもっているのである―この宇宙には、いささかの真理ももたぬものなど存在しない。むしろ、彼らが自分たちの正当性を取り扱う場合の、反歴史的、時代錯誤的な方法を指しているのである。大衆人の運動の常として、凡庸(ぼんよう)で、時代に則しておらず、古い記憶もなければ「歴史意識」もない人間に指導された典型的な大衆人の運動は、初めからあたかもすでに過去であるかのごとく、つまり、今起こりつつありながらあたかも昔の人類に属しているかのようなふるまい方をする(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 130)
しばしば「歴史は繰り返す」と言うけれども、歴史に学ばぬ人達は、過去と同じ過ちを犯しがちである。例えば、なぜヒトラーが登場し暴走することになったのかについて省察を加えなければ再び「独裁者」が現れることとなりかねない。
いっさいの過去を自己のうちに縮図的に蔵(ぞう)することこそ、いっさいの過去を超克(ちょうこく)するための不可避的な条件である。過去と戦う場合、われわれはとっ組み合いをすることはできない。未来が過去に勝つのは、未来が過去を呑み込むからである。過去のうちの何かを呑み込みえないままで残すとなれば、それは未来の敗北である。(同、p. 132)
歴史に宿す英知に学ぶことは、過去を超克するための必須条件であろう。過去に学ばぬ人間が考えることなど高が知れている。
19世紀の文明とは、平均人が過剰世界の中に安住することを可能とするような性格の文明であった。そして平均人は、その世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ないのである。彼は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである。こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さを奪いとり腐敗させてしまうのである。これこそ絶体絶命の危険であり、根本的な問題なのである。人間の生がとりうる最も矛盾した形態は「慢心しきったお坊ちゃん」という形である。だからこそ、そうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には、警鐘をならし、生が衰退の危機に瀕(ひん)していること、つまり、死の一歩手前にあることを知らさなければならないのである。(同、pp. 142-143)
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