オルテガ『大衆の反逆』(11) 借り物の思想
今日の状況の中で、社会的な生における知的凡庸さの支配ほど、過去のいかなる事件とも同一視することのできない新事態はないのではなかろうか。少なくともヨーロッパの歴史においては、庶民が自分が物事に関する「思想」をもっていると信じ込んだことは一度もなかった。彼らは、信条、しきたり、経験、格言、習慣的なものの考え方などはもっていたが、物事の現在の姿、あるいはかくあるべきという姿に対する―たとえば政治や文学に対する―理論的見解を自分がもっていると想像したことはなかったのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 99-100)
<大衆>が語る思想など「借り物」に過ぎない。そこにはあるのは結論だけである。裏にあるはずの知的格闘がすっぽり抜け落ちている。だから彼らの思想には重みがない。大層なことを言っているようで張り子の虎でしかない。
彼らにも、政治家が計画することや実行することが善いか悪いかを判断し、賛成したり反対したりすることはできたが、彼らのそうした行動は、他の人々の創造的な行為を、肯定的あるいは否定的に反射するということに限られていた。彼らは、政治家の「思想」に対して自分の思想を対立させるということはけっしてなかったし、政治家の「思想」を、自分がもっていると信じている別の「思想」によって裁こうなどと願ったこともなかったのである。(同、p. 100)
今や政治家は<大衆>の代表と化している。したがって、我々が目にするのは、政治家と<大衆>との思想における対決ではない。政治家が<大衆>の意向を汲んでいるかどうかが問われているのである。勿論、このようなことは間違っている。政治が「世論」(せろん)という名の無責任な一時の国民感情に支配されてしまっては、国は立ち行かなくなってしまう。世論を無視しろと言えば言い過ぎなのだろうが、参考程度に留めおくことが肝要だろう。
芸術に関しても、また社会的な生の他の局面に関しても、彼らの態度は同じであった。自己の限界、つまり、自分には論理的に思考する資質がないという生得的な自覚が、彼らが前記のような態度に出るのをはばんでいたのである。その当然の結果として、大部分が理論的性格のものである社会的活動のいかなる分野においても、自分が決定を下すなどおよそ考えてもみなかったのである。(同)
かつての庶民は、分(ぶん)を弁(わきま)えていたということだ。自分が知らないことには口を挟まない。これが礼儀であり常識であった。が、今や<大衆>は自分が知らないことにまで平気で口を挟むようになってしまった。マスコミやワイドショーが提供する情報によって、自分が事情に明るいと勘違いしてしまっているのである。否、政治自体が大衆化してしまって、<大衆>の暇潰しにお手頃の水準となってしまっているのが問題だと言うべきか。
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