オルテガ『大衆の反逆』(15) 垂直的侵略者

最も怖るべき事実は、平均人が科学から受ける恩恵と、平均人が科学に対して抱く―いや抱かないというべきであろう―感謝の念の不調和なのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 120

 <大衆>は手に入れるばかりで与えることをしないから社会の帳尻が合わない。<大衆>は社会の「搾取者」なのである。

今やヨーロッパにおいて支配的な地位に登り始めた人間は―これがわたしの仮説である―彼がその中に生まれ出た複雑な文明と対比すれば、原始人であり、舞台の迫出(せりだし)から突如姿を現わした野蛮人、「垂直的侵略者」なのである。(同)

 自分が作ったものであれば思い入れもあろうが、自分が生まれた時には既に文明が存在していたのであるから、そこに有難みがあろうはずもない。在って当たり前のものに過ぎないのである。

文明とはそこにあるというものではないし、自立自存もしえないものである。文明とは技巧的なものであり、芸術家もしくは職人を必要とするものである。もしあなたが文明の使役を利用したいと希望しながら、文明を維持することに関心を示さないなら、……あなたは失望する結果に終わるだろう。たちまちのうちに、あなたは文明を失うだろう。(同、pp. 124-125

 もし自分が生きている間に文明が失われるというのであれば、少しは危機感を持つかもしれないが、<大衆>は恐らくそう思わない。文明を維持発展するために自らも努力しなければ文明は失われてしまうと警鐘を鳴らしたとしても、馬耳東風でしかないだろう。

 大衆人は、自分がその中に生まれ、そして現在使用している文明は、自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており、そしてそのこと自体によって(ipso facto)原始人になってしまっているのである。文明は彼にとっては原生林のように見えるのだ。(同、p. 126

 文明というものは、進めば進むほど、いっそう複雑でむずかしいものになってゆく。今日の文明が提起している問題は極端に錯綜(さくそう)したものである。そして、それらの問題を理解しうる頭をもった人間の数は日ごとに少なくなっていっている。(同、p. 127

 文明の発展に伴って「専門分化」が進み、同時に、これらを統合し総合することが難しくなってしまった。全体像を把握できる人間がいなくなってしまった。全体像が見えなければどこかに歪(ひずみ)が生じてもこれを修復することは出来ない。

歴史とは、自分の背後に多くの過去すなわち経験をもつということである。歴史的知識は、成熟した文明を維持し継続してゆくための第一級の技術なのである。それは歴史的知識が生の紛争の新しい様相―以前の時代の素朴な誤りをふたたび繰り返すのを防いでくれるからだ。(同、p. 129

 <歴史>を知らぬ人間が文明の利器を振り回すのは危険である。今ここに存在するものにはすべて<歴史>がある。文明の恩恵に浴するのであれば、故事来歴を学ぶ義務がある。<歴史>は「取扱説明書」のようなものである。

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