オルテガ『大衆の反逆』(28) 未来への幻想

人間は不可避的に未来主義的構造をもっている。つまり、何よりもまず未来に生き未来によって生きているのである。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 268)

 <未来主義>という言葉が引っ掛かる。「人間は未来に向かって生きる」と言うのならまだしも、それを<主義>とまで言うのはやはり言い過ぎであろう。今だけに気を取られていては方向を誤りかねない。一方、未来だけ見ていては、地に足が着いていなくても気が付かない。重要なのは、今と未来との平衡(へいこう)である。

ところでわたしは、古代人とヨーロッパ人を対置して、古代人は未来に対して比較的封鎖的でありヨーロッパ人は比較的開放的であるといった。ここには一見矛盾があるように見えるだろう。しかしそれが矛盾とみえるのは、人間が複層をもった存在であることを忘れている場合である。つまり、一方においては、人間は現にかくあるものであるが、他方においては、人間は自己の真の現実と多少とも一致している自己自身に対する観念をもっているものである。われわれの観念や好みや願望がわれわれの真の存在を無効にすることができないのはもちろんだが、しかし混乱させたり変形させたりすることはできる。古代人もヨーロッパ人も実は同じように未来に関心はもっているが、しかし古代人は未来を過去の規範に服せしめているのに対し、われわれヨーロッパ人は来るべきもの、新しいものそれ自体により大きな自律性を与える点が違っているのである。こうした在り方そのものの相違ではなく好みの相違が、ヨーロッパ人を未来主義者とみなし、古代人を懐古主義者とみなす立場を正当化する(同、pp. 268-269

 欧州大陸は保守性が希薄なのであろう。保守は過去の積み重ねの延長線上に未来を見る。過去の経緯を無視した未来など「絵に描いた餅」に過ぎないからである。にもかかわらず、オルテガは<来るべきもの、新しいものそれ自体により大きな自律性を与える>と言っている。が、<来るべきもの>とは一体何か。来たるべきか否かは何を根拠としているのであろうか。判断の根拠は過去にある。さもなくば単なる思い付きである。ただ過去に拘泥(こうでい)するのであれば「懐古趣味」と言われても致し方なかろうが、弓矢も後ろに強く引いて射るように、過去を参照せずに理想を語ったところで現実に打ちのめされるだけであろう。

今やヨーロッパにモラルが存在しない…それは、大衆人が新しく登場したモラルを尊重し、旧来のモラルを軽視しているというのではなく、大衆人の生の中心的な願望がいかなるモラルにも束縛されずに生きることにあるということなのである。(同、p. 271

 <モラルが存在しない>とは言い過ぎであろうが、オルテガが言いたいのは、<大衆>にはモラルを守るというモラルがないということなのではないか。つまり、人々がモラルを守る気がなければ、モラルなど有って無きがごとくものだということである。【了】

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