オルテガ『大衆の反逆』(27) ナショナリズムか国民国家主義か

ナショナリズムはすべて袋小路(ふくろこうじ)なのだ。試みにナショナリズムを未来に向けて投影してみていただきたい。たちまちその限界が感得されるだろう。その道はどこにも通じていない。ナショナリズムとはつねに国民国家形成の原理に逆行する衝動である。ナショナリズムは排他的であるのに対して国民国家主義は包含的なのだ。しかしナショナリズムも基礎固めの時代には積極的な価値をもっており、1つの高度な規範たりうる。だがヨーロッパにおいては、すべては十分過ぎるほど固まっているので、ナショナリズムは単なるマニアであり、創意の義務と大事業への義務をまぬがれようとする口実にすぎないのである。ナショナリズムが用いている単純きわまる手段とそれが賞揚している人間のタイプを見れば、ナショナリズムが歴史的創造とはまったく逆のものであることが十分すぎるほど明らかとなろう。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 262)

 <国民国家形成の原理>を一旦ここでは「国民国家主義」(nation-statism)と称するとすると、問題は、ナショナリズムか国民国家主義かの二者択一ではないということである。オルテガはナショナリズムを旧套(きゅうとう)として攻撃するが、国民国家を形成するにしても民族(nation)自体が無くなるわけではない。民族が連帯して国民国家が出来るのである。民族のような中間組織は国民国家統合の邪魔になると考え、民族を紐帯(ちゅうたい)なき個人へとバラバラにしようとするのであれば、それは「全体主義」になってしまうだろう。

このまま年月がたち、ヨーロッパ人が現在営んでいる低次の生に慣れてしまう危険、世界を支配しないことにも自己自身を支配しないことにも慣れてしまう危険があるからである。そうなった場合には、ヨーロッパ人の高度の美徳も能力もすべて雲散霧消してしまうだろう。

 しかしヨーロッパの統合には、国民国家形成の過程においてつねにそうであったように、保守的な階級が反対している。こうした保守主義者の態度は、彼ら自身の破局を招きかねない。というのは、ヨーロッパが決定的に遺徳的堕落に陥りその歴史的エネルギーのすべてを喪失してしまうにいたるという普遍的な危険の上に、さらにもう1つきわめて具体的で切迫した危険を加えることになるからである。(同、p. 263

 このようにオルテガは欧州統合に前のめりであった。が、現在のEU(欧州連合)の苦境を見ても分かるように、お世辞にも統合が上首尾(じょうしゅび)だったとは言い難い。自主性、自律性なき国が統合されたとて力とならないのである。

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