オルテガ『大衆の反逆』(23) 共通性の創造

共通の血、言語および過去は静的で、宿命的で、硬化した無気力な原理であり、牢獄である。もし国民国家がそれらのみに存するとすれば、国民国家とはわれわれの背後にあるものであって、われわれとしてはなすべきことは何もないだろう。つまり、国民国家とはかくあるものであって、かく形成するものではなくなってしまうだろう。さらに国民国家が誰かに攻撃されたとしても、それを守ることすら無意味になってしまうであろう。(オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、p. 247)

 国家の基礎となるのは<共通の血>であり<共通の言語>であり<共通の過去>であることは論を俟(ま)たないだろう。が、大事業をなさんとすれば、より多くの人々、地域、国家が連帯せねばならない。それが物理的紐帯(ちゅうたい)を超越した、オルテガ言うところの<国民国家>なのだと思われる。

 もし国家が過去と現在とからのみ成り立っているのであるなら、それが攻撃を受けても誰も防衛しようとはしないだろう。このことに反対する人は偽善者かさもなければ愚者である。国家の過去は、未来に夢―それが正夢であろうと逆夢であろうと―を投影するのである。われわれには、われわれの国家がその中で存続するような未来が望ましく思えるのだ。だからこそ、われわれは祖国の防衛に立ち上がるのであって、血を守るためでも、言語を守るためでも、共通の過去を守るためでもない。国家を守ることによってわれわれが守衛するのは、われわれの明日であってわれわれの昨日ではない(同、pp. 247-248

 私にはオルテガの論理が今一つ分からない。例えば、明日は未だ来ないものであるから備えることは出来ても具体的に差配することは出来ない。だから、良き未来を手に入れるためには現在において最善を尽くすのみである。換言すれば、現在の努力の積み重ねが良き未来へと繋がっているということである。過去は過ぎ去ったものであるから変えられないというのは「事実」ではあっても「真実」ではない。どの角度、どの距離で過去を見るかによって「史実」は変わらなくとも「解釈」は変わる。「事実は1つであっても、真実は複数ある」と言われる所以(ゆえん)である。だから過去を守るということもまた現在の大切な仕事なのである。

国民国家は、成員に共通した1つの過去をもつ前に、その共通性を創造しなければならない、さらに共通性を創造する前に、それを夢み、欲(ほっ)し、計画せねばならない(同、p. 249

 これも少し「前のめり」なのではないか。<共通性>は時間を掛け自然に涵養(かんよう)されるべきものである。期が熟するのを待たずして人工的に急ぎ創造されたものは壊れやすいからである。

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