オークショット「保守的であるということ」(10)微調整

我々は他人の道を横切る形で自分の道を進んでおり、皆が同種の行為を是認しているわけではない。しかし我々は、時には譲歩し、時にはしっかりと自分の道を固守し、時には妥協することによって、概して互いにうまくやっているのである。我々の行為を構成している活動は、他者の活動と同化するように調整されており、しかもその調整は微小なもので、かつその大部分は、控え目で目に留まりにくいものなのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 220-221)

 保守とは、ただ旧套(きゅうとう)を墨守(ぼくしゅ)することではない。時代の変化に合わせ、大きな齟齬(そご)が生じないように「微調整」を怠らない、それが保守の真髄だと言えるのではないだろうか。

 こうしたことすべてが何故そういうものなのか、という点は重要ではない。それは、必然的にそうなっているわけではない。人間の環境が異なった状況にある場合も容易に想像できるし、また、時代や場所によっては、活動がはるかに多様性や変化に乏しく、見解もはるかに多様性に乏しくて衝突を生じにくいという状況にもなる、あるいはそうであったこともあるということを、我々は知ってもいる。しかし、概して我々は、これを我々の状況だと認めているのである。その状況は、誰もそれを企図したとか、他のすべてのものに優先してそれを特に選択したとかいうわけではないが、それにもかかわらず人間が獲得したものである。それは、自分自身で選択を行うということへの愛を身につけた人間が、それに衝き動かされて生み出したものであって、「人間の本性」が解き放たれてできたものではない。(同、p. 221

 伝統や慣習といったものは、誰かが意図して作成したものではない。社会を構成する人々が賛成し、あるいは、反対せず受け継いできた「集大成」なのである。

 この情景を見渡して、或る人々は、秩序と統一の欠如がその顕著な特徴であるかのように思い、そのことに刺激されてしまう。つまりそれは、その無駄の多さ、その失敗、それによる人間の精力の浪費であり、さらに、目的地が予め計画されていないというだけでなく、いかなる進行方向も識別すらできないということである。(同、p. 221

 世の中には物事を否定的に見てしまう性向の人達がいる。こういった人達は、往々にして社会が暗黒にしか見えない。自分が目にしているものがすべてだと思い込み、目にしていないものは「捨象」される。自分が目にしているものが「事実」だと信じて疑わない。自らが、誤認、誤解している可能性があることになど考えは及ばない。

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