オークショット「人類の会話における詩の言葉」(14)「知を愛する」(フィロソフィア)

《この(=観照)活動はわれわれの最高の活動である。理性はわれわれのうちに存するもののうち最高のものであり、理性のかかわるところのものは知識されるものの最高のものなのであるから――。さらにまた、それは最も連続的でありうる。すなわち、観照的な働きはいかなることがらをなすよりも連続的に行なうことが可能である。

また、幸福には快楽の混在が必要であると思われている。しかるに、卓越性に即してのもろもろの活動のうちでも、最も快適なのは、誰しも同意するごとく、智(ソフィア)に即しての活動なのである。現に哲学(フィロソフィアー=愛智)は純粋性と不動性とにおける驚嘆すべき快楽を含んでいると考えられている》(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 223

「知を愛する」者は、このような説明がしっくりくるのかもしれない。が、そうでない者にとっては、どうして哲学することが<快楽>をもたらすのかよく分からないに違いない。であれば、例えば、哲学は「道楽」だと考えれば、どうだろう。

《哲學者とか科學者といふものは直接世間の實生活に關係の遠い方面をのみ硏究してゐるのだから、世の中に氣に入ろうとしたつて氣に入れる譯でもなし、世の中でも是等の人の態度如何で其硏究を買つたり買わなかつたりする事も極めて少ないには違(ちがい)ないけれども、あゝ云ふ種類の人が物好きに實驗室へ入つて朝から晚まで仕事をしたり、又は書齋に閉ぢ籠こもつて深い考(かんがえ)に沈んだりして萬事を等閑に附している有樣を見ると、世の中にあれ程己の爲にして居るものはないだらうと思はずにはゐられない位です。

それから藝術家もさうです。かうもしたらもつと評判が好くなるだらう、ああもしたらまだ活計向(くらしむき)の助けになるだらうと傍(はた)の者から見れば色々忠吿のしたい所もあるが、本人は決してそんな作略はない、たゞ自分の好な時に好なものを描いたり作つたりするだけである。尤(もっと)も當人(とうにん)が既(すで)に人間であつて相應(そうおう)に物質的嗜欲(しよく)のあるのは無論だから多少世間と折合つて步調を改める事がないでもないが、まあ大體(たいだい)から云ふと自我中心で、極(ご)く卑近の意味の道德から云へば是れ程我儘(わがまま)のものはない、是れ程道樂なものはない位です。

既に御話をした通り凡(およ)そ職業として成立する爲には何か人の爲にする、卽(すなわ)ち世の嗜好(しこう)に投ずると一般の御機嫌を取る所がなければならないのだが、本來から云ふと道樂本位の科學者とか哲學者とか又藝術家とかいふものは其立場からして既に職業の性質を失つてゐると云はなければならない》(「道楽と職業」:『漱石全集』(漱石全集刊行會)第13巻 評論 雑篇、pp. 346-347



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