オークショット「人類の会話における詩の言葉」(3)自己はイメージを描き、その間を動き回る

自己は、イメージ(image)を作り、それを認め、またそれらの間を、それらの性格にかなったようなやり方で、また多様な能力をもって動きまわるのである。かくて、感覚、知覚、感情、欲求、思考、確信、瞑想、想定、知識、選好、評価、笑い、泣き、踊り、愛し、歌い、草を干したり、数学の証明をしたりなどなど、これらそれぞれが、想像することと、一定の種類のイメージ群の間を適切に動きまわることとの、それぞれ特定し得る様態であり、あるいはそこに生起するものである。

(中略)

自己とは活動そのものなのである。イメージは作られる。にもかかわらず、自己と非自己、想像することと想像されるイメージは、それぞれ原因と結果であるのでもなければ、意識と意識内容であるのでもない。つまり、自己とは、イメージを作り、イメージの間を動く活動の中で、構成されるものなのである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、pp. 246-247

 まさに哲学的文章なので言葉以上に難解である。自己(つまり、「自分」ないしは「私」)は、五感や頭・心を使って「イメージ」を描く。そして、イメージとイメージの間を縦横無尽に動き回る。それが「活動」ということになる。

実践的想像作用の中で、まず第一に我々の注意を引く側面は、欲求と反発としてのその性格である。実践の世界は、意欲の相の下での(sub species voluntatis)世界であり、それを構成するのは、快と苦のイメージである。(同、p. 248

※the world sub species voluntatis = the world under the guise of will(意思という名の下の世界)

もちろん、欲求することは、今まで非活動的である自己の中に活動をよび起す原因なのではない。我々ははじめに、休止の状態から一つの運動へと移行させるような「欲求を持っている」わけではないのだ。つまり、欲求するということは、ただある特定の仕方で活動的であるということなのであり、例えば手をのばして花にふれてみるとか、ポケットの中に銅貨をさぐるとか、ということなのである。

また我々は、最初に欲求をもって、それからそれを溝足させるための手段をさがすというわけでもない。我々の種々の欲求は、ただ欲求するという活動の中でのみ知られるのであり、欲求することは、ある満足を求めることなのである。おそらく、多くの場合に我々は、自動機械のように行動し、特定の選択にもとづいてではなくただ習慣によって、想像している。だがこれらの習慣は、実践的活動においては、欲求と反発の習慣なのである。これまでのところ、実践的活動における企ては、我々の世界を快のイメージでみたすことである。(同、pp. 248-249

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