オークショット「人類の会話における詩の言葉」(2)政治と科学に占拠された会話

もともと教育とは、この会話の技術や参加資格への入門のことであり、そこで我々は様々の言語を認識し、発話の適切な機会を弁別することを学び、またそこで我々は会話にとってふさわしい知的ならびに倫理的な習慣を獲得するのである。そして、すべての人間の活動と発話に、最終的に場所と役割をふりあてるものは、この会話である。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 240)

 さて、教育の主たる目的の1つは、「会話術」を身に付けることである。先ず言葉を話し聞くために必要な言語力を身に付け、次に会話に必要な礼儀作法を身に付ける。さらに、会話に関する倫理、道徳といった社会規範を身に付ける、といった具合である。

 ここ数世紀の内に、公の場でも我々自身の中においても、会話というものがだんだん退屈なものになってしまっているのは、それが、実践的活動の言語と「科学」の言語という2通りの言語にだけ没頭してきたためである。つまり、認識することと発明することが、我々の他を圧する関心事とされているのである。(中略)いろんな機会にしょっちゅう耳にするのは、科学の言語が、実践的活動の変異態、即ち我々が「政治」と呼ぶものの言語とくつわをならべて、ただ声高に論じあう声である。(同、p. 243

 会話が退屈に感じられるのだとすれば、それは、本来話題が複雑多岐に渡るはずの会話が単純単調なものになってしまったからであろう。オークショット曰(いわ)く、会話の場が、<政治>と<科学>に占拠されてしまったということである。しかも、その<科学>は、<政治>的色合いが濃いとくる。残念ながら、会話は、今や「権力闘争」の場と化してしまった。これでは会話そのものを楽しもうにも楽しむことはできない。だから、退屈なのである。

 会話を、それがはまり込んでしまったぬかるみから救い出し、会話に、失われていた自由な運動を回復させるためには、私は何よりもある深い哲学を提供しなければならない…私が提案するのは、詩の言語を考察しなおすということであり、それを会話において語られるものとして考察するということである。(同、pp. 243-244

今日必要なことは、これまであまりに長きにわたって政治と科学に専有されてきた会話の単調さから、いくぱくか自由になることであるとするなら、詩の言語の特質と重要性を探求することは、このためにいくらか役立つかもしれないと考えられるのである。(同、p. 244

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