オークショット「保守的であるということ」(17)統治者は価値中立的審判員
規則に従って試合を進行させることをしないような審判員には、あるいはまたえこひいきをしたり、自分自身の試合をしてしまったり、いつも笛を鳴らして試合を止めたりするような審判員には、用がない。結局のところ大事なのは試合なのであり、そして試合で競技する際には、我々は保守的である必要はないし、現在のところそういう傾向にもないのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 231)
自由主義の統治者は競技の審判員のような存在である。競技の外側から、競技者が規則を守って競技しているかどうかを監視し、違反があれば、指摘指導する。
この種の統治は、我々の戦いの熱気の中に、諸々の信念の激しい衝突の中に、また、隣人達ないし全人類の魂を救済しようとする我々の熱狂の中に、次のような諸要素を注入する。即ちそれは、理性の要素ではなくて(一体どのようにして我々はそれを期待すればよいのか?)、悪徳をもう一つの悪徳によって中和しようとする皮肉の要素であり、また、それ自体は賢明さを標榜せずに行き過ぎをくじく揶揄(やゆ)の要素、緊張を散逸させる嘲笑の要素、そして不活性の要素と懐疑の要素である。(同、p. 232)
揶揄嘲笑、諧謔(かいぎゃく)滑稽を交え、熱狂を冷まさせる。まさに「毒を以て毒を制す」かの如(ごと)しである。
活動が冒険的な企てへと傾いているところでは、それに対応するものとして、抑制の方に傾いたもう一つの種類の活動が不可欠である。(同)
例えば、冒険的な企てには保守的な企てによって<中和>を図り、社会秩序の平衡を保とうとするということである。
「審判員」が同時に競技者の1人でもあれば、それは全く審判員などではないし、「規則」に対して我々が保守的性向を有していないのであれば、それは規則ではなく、無秩序への誘因である。夢を見ることと統治することを連結すると、それは圧政を生むのである。(同、p. 233)
競技から中立的であるからこその審判なのであって、審判自身が競技に参加してしまっては、中立は保てない。競技に参加する審判は、自分達に都合の良い判定を下すようになり、競技の自由は圧殺されてしまうだろう。
統治に関して保守的性向を有するのがきわめて適合的だと思われる人々とは、まさに自分の責任において行ったり考えたりする事柄があり、技能を身につけたり知的財産を作ったりするつもりのある人々なのであり、また、情念に火をつけてもらう必要もなく、欲求を引き起こされたり、より良い世界の夢を吹き込まれたりする必要もない人々なのである。(同、p. 233)
<自分の責任において行ったり考えたりする事柄>があるということは、個人が自由に裁量することが出来るということである。イデオロギーに囚(とら)われず、自由に判断できるからこそ価値中立的な審判員が務まるのである。
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