オークショット「保守的であるということ」(14)「政府」の役割

自己の信条と企てに関して情熱的な人々によって行われる自律的統治は、それが最も必要とされる時に失敗に終わりがちである。解決すべき利益の衝突が比較的小規模のものであれば、そうした自律的統治でも充分なことが多いのであるが、これを超えたものについては、それはあてにできないのである。我々の生き方から生じがちな大規模な衝突を解決し、我々が脱け出せなくなりがちな大きな挫折から我々を救い出すためには、そう簡単には本来の姿が損なわれないような、もっと精緻な儀式が必要となる。この儀式を保護する者が「政府」であり、その者によって課される規則が「法」である。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 225-226)

 規模の小さな原始的な社会においてであれば、<自律的統治>も可能かもしれないが、現代のように規模が大きく複雑化した社会においては「政府」という組織が不可欠となる。

統治することとは…目的追求をくじく利益衝突という結果に至る可能性が、当該の環境において最も低いような行動様式を支えるために、法的な制約を提供することであり、また、他人がこれに反した振舞い方をしたので被害を受けたという人のために、補償やら埋め合わせの手段やらを提供すること、規則におかまいなく自分自身の利益を追求する者に対して、時には罰を加えること、そして勿論、この種の仲裁者としての権威を充分に維持できるだけの力を、提供することである。(同、pp. 226-227

 人々の自由な活動の結果として生じる利害衝突を最小限に抑えるために設定されるのが「法」であり、この「法」を実行あらしめるのが「政府」の役割である。

統治は特殊で限定的な活動として認識されるのである。それは、それ自体が1つの企ての遂行なのではなく、自分で選択した、それぞれにきわめて多様な企てに携わっている人々の、活動の枠組となる規則を維持することなのである。統治が関わりを持つのは、具体的な人間ではなく諸々の活動であり、しかもその関わりは、それらが相互に衝突する傾向を持つという点のみにおけるものである。

統治は道徳的善悪とは関係がないのであり、人々を善きものにしようという目的で行われるものではないし、人々を比較的善いものにしようという目的ですら行われるものではない。

統治が欠くことのできないものである理由は、「人類が本性上、堕落しがちな存在であること」にあるのではなく、人間には現在のところ、度を越してしまいがちな性向がある、ということにある。統治者の仕事とは、それに服する者達が、それぞれ自己の幸福を追求するための活動として選択したものに携わりつつ、互いに折り合っていけるようにすることである。(同、p. 227

コメント

このブログの人気の投稿

ハイエク『隷属への道』(20) 金融政策 vs. 財政政策

バーク『フランス革命の省察』(33)騎士道精神

オルテガ『大衆の反逆』(10) 疑うことを知らぬ人達