オークショット「保守的であるということ」(7)<見返り>を求めない人間関係
人間の諸関係の中には、保守的性向が特に適合的だというわけではないものも、数多く存在する。つまりそこでは、差し出されたものそれ自体の中にのみ楽しみを見出そうとする性向は、特に適合的だというわけではない…ここでは、当事者はそれぞれ、何らかの利便の提供または提供された利便への何らかの見返りを求めている。(中略)
しかし、人間の関係にはもう1つの種類があり、そこでは、当事者達はいかなる成果も追求せず、その関係にそれ自体として携(たずさわ)っている。この関係は、それがもたらすもののゆえにではなく、それ自体として楽しみを与えているのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、pp. 209-210)
人間関係には、<見返り>を求めるものと、<見返り>を求めないものがあるということだ。例えば、
主人と使用人、地主と管理人、買い手と売り手、本人と代理人、といった関係(同、p. 209)
は、<見返り>を求めるものの例である。逆に、<見返り>を求めないものとしてオークショットは<友情>を例に挙げている。
友情…ここでは、親しみが何となく伝わることによって愛着が生まれ、相互の人格的交流によってそれが維持されている。好みの肉が手に入るまで肉屋を次々と変えていくとか、要求されたことを行うようになるまで代理人を指導し続けるとかの行動は、それぞれの関係にふさわしからざるものではないが、友人が期待通りに振る舞わず、また要求に適うように指導されることも拒んでいる、との理由でその人との関係を断つという行動は、友情というものの性格を完全に誤解した者のすることである。友人達が互いに関心を持っている点とは、相手をどうすることができるかということではなく、ただ相手の中に楽しみを見出すということだけなのであり、この楽しみを可能にする条件は、あるがままのものを喜んで受け容れ、それを変えたり改良したりしようとする願望を一切抱かない、ということである。(同、p. 210)
<友情>は、<見返り>を求めるようなものではない。友と共に時を過ごし、心を通い合わせること自体に<愛着>があるのである。
友人とは、或る振る舞い方をすると信頼された人のことではないし、何か求めているものを与えてくれる人、役に立つ或る能力を持っている人、その美点が単に或る感じの良いものであるにすぎない人、或る好ましい意見を持っている人、のことでもない。友人とは、取り結んだ関係だけのせいで想像力を引きつけ、思索を刺激し、関心、共感、喜び、そして誠実さを呼び起こすような人のことである。(同)
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