オークショット「保守的であるということ」(11)「革命」へと至る単純思考

その情景は、自動車レースと似た興奮をもたらすが、そこには、何らかの仕事上の企てを見事に遂行したときに得られる満足は、少しもないのである。このように思った人達は、現在の乱雑さを大げさに捉えがちになる。彼らにとっては、計画の欠如があまりにも著しいので、混沌(こんとん)を抑制するには微調整では足りないし、それどころかもっと大がかりなしくみですら役に立たないと思われている。彼らは乱雑さを不便なこととしか感じず、そこに温もりを感じることはない(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 221)

 自由主義とは個人の自由を尊重するということであり、結果として、個々バラバラな個人が混在することとなる。これを<自由>と見る人もいれば、<乱雑>と見る人もいるだろう。後者の人達は、社会に統制が取れていないことの表れと見、それは<計画の欠如>の問題と考える人もいるだろう。この<混沌>を解消するためには社会を抜本的に変えなければならない。すなわち、「革命」が必要だということになる。

彼らの観察能力に限界があるということは、重大ではない。重大なのは、彼らの思考の転回である。彼らの感ずるところによれば、この所謂(いわゆる)混沌を秩序へと変えるために行うべきことがあるはずであり、それというのも、合理的な人間は決してこのようにして人生を送っていくべきではないからである。

彼らは、まるで、ダフネの首のあたりに垂れた髪が乱れているのを見たときのアポロンのように、ため息をつき、「もしそれがきちんと整っていたとしたら、どんなだろう」と一人言を言う。そのうえ彼らの言うところによれば、彼らは夢の中で、衝突が生じないという、全人類にふさわしい栄えある生き方を、目にしたことがあり、彼らの理解によれば、現在の我々の生き方を特徴づけている多様性とか衝突の生ずる場面とかを、除去しょうとすることが、この夢によって正当とされる。

勿論、彼らの見た夢のすべてが全く同様なものというわけではないが、次の点は共通している。即ちどの夢に現れた光景を見ても、そこでは、人間の環境は衝突の生ずる場面が取り除かれた状況になっており、人間の活動は協調的で、単一の方向へ進むようにさせられており、またどの資源も充分に利用されているのである。

このように考えるのだから当然のことながら、そうした人達の理解によれば、統治者の職務とは、そうした人達の夢を、人間の環境の当該の状況の下で統治に服する人々に対して、押し付けることだということになる。統治するということは、私的な夢を、強制できる公的な生き方へと変えることである。こうして、政治という活動は夢と夢のぶつかり合いと化し、そこにおける統治者は、自らの職務に関するこうした理解に正確に従い、またそれに適合した諸々の手段の供給を受けるのである。(同、pp. 221-222

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