オークショット「人類の会話における詩の言葉」(16)理性の活動

もろもろの卓越性に即しての働きのうち、政治的および軍事的なそれは、たとえうるわしさや規模の大きさにおいて優越してはいても、非閑暇的であり或る目的を希求していてそれ自身のゆえに望ましくあるのではないに反して、理性の活動は――純観照的なるがゆえに――その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外のいかなる目的をも追求せず、その固有の快楽を内蔵しているものと考えられ(この快楽がまたその活動を増進する)、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的、その他およそ至福なるひとに配されるところのあらゆる条件がこの活動に具備されているものなることが明らかなのであってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、この活動でなくてはならないであろう。この活動は、だから、生涯の究極的な永さに及ぶことを要する。けだし、幸福を構成するいかなる条件も非究極的であってはならないからである。(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 224)

 このように自足的・閑暇的・無疲労的な理性の活動、すなわち、観照的活動が、人間の究極的な幸福だとアリストテレスは言う。

かような生活は人間の水準を超えた生活ではあろう。なぜなら、ひとがかかる生活を営みうるのは、彼が人間であるかぎりにおいてではなく、かえって神的な或るものが彼のうちに存するかぎりにおいてなのであって、この神的なものが複合的なる人間にまきっているその程度に準じて、この活動もまた他の卓越性に即しての活動にまさっている。したがって、理性は、人間に対比して神的なものであるとするならば、理性に即しての活動にもっぱらな生活もまた、「人間的な生活」に対比して「神的な生活」でなくてはならない。ひとは、しかし、「人なれば人のことを、死すべきものなれば死すべきもののことを思慮せよ」という勧告に従うべきでなく、できるだけ不死にあやかり、「自己のうちに存する最高の部分」に即して生きるべく、あらゆる努力を怠ってはならない。(同)

 世俗に塗(まみ)れた状況では、観照的活動は行えない。観照的活動には、俗世の喧騒(けんそう)と距離を置くことが必要であり、人間的な生き方から離反することも必要となろう。詰まり、観照的活動は、「神的な装い」を醸し出す活動ということになる。勿論、神になりたいわけでもなければ、神域に足を踏み入れようとするわけでもない。ただ人間離れした活動が、傍目(はため)には神性を纏(まと)って見えるということである。

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