オークショット「保守的であるということ」(8)保守的性向

友人という関係は、劇のようなものであり、功利的なものではない。その結びつきは親しみによるものであって、有用性に基づいたものではない。そこで発揮されている性向は保守的なものであり、「進歩志向的」なものではない。そして、我々の経験する物事の中にはこの他にも――例えば愛国心や会話のように――、そこから楽しみを得るための条件としてそれぞれに保守的性向の必要とされるものがありそれらに対しては、友情について当てはまったことが、全く同様に当てはまるのである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 210)

 <友情>、<愛国心>、<会話>といったものには、低次から高次への<進歩>の観念がない。今日の<友情>より明日の<友情>の方がより高尚であり、それは<完成>へ向けて歩を進めるものだ、などという意識はない。

人間の諸関係を伴わないような活動の中にも、見返りのためにではなく、それが生み出す楽しみのために人が携わることのあるようなものがあり、そして、それに唯一適合的な性向は保守的性向なのである。(同、p. 211

 保守が現状の肯定にあるのに対し、進歩は現状の否定である。保守は現状に愛着があるのに対し、進歩は現状に不満がある。保守にとって未来は現在の延長線上にあるが、進歩にとって未来は現在から切り離された「空想」の中にある。

釣りを考えてみよ。釣りという活動は、獲物という利益を求めてではなく、人がそれ自体のために携わることがあるものなのであり、従って釣り人は夕方手ぶらで家に帰って行く時でも、魚の獲れた場合と比べて少しも不満足ではないこともある。このような場合には、その活動は儀式のようになっており、保守的性向が適合的である。もしあなたが釣れるかどうかを気にかけないのなら、何故、最高の道具のことで思い悩んだりするのか。大切なのは、腕前を発揮するという(あるいはもしかすると、単に時間を過ごすというだけの)楽しみなのであり、これを得るために必要な道具は、ばかばかしいほどに不適合なものでない限り、慣れ親しんだものであればどのようなものでもよいのである。(同)

 <釣り>とは、本来魚を釣る行為である。が、趣味としての<釣り>は、必ずしも魚を釣ることが目的とは言えない。魚が餌に喰い付く「アタリ」を待つ静寂な時間をただ楽しむということもある。むしろ、日常から解放され、時に追い立てられることもない自由な時間を楽しむことが主目的である可能性すらある。その場合、魚が釣れるかどうかは二の次である。

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