オークショット「保守的であるということ」(15)理想と現実の綱引き

規則の修正は、それに服する者達の諸々の活動や信条における変化を常に反映したものでなければならず、決してそうした変化を押し付けることがあってはならない。またそれは、決していかなる場合でも、全体の調和を破壊してしまうほどに大がかりなものであってはならない(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 228)

 規制の変更は、社会秩序の乱れを是正するために行うものであり、社会を一定の方向に向けさせるために行うものではない。また、変更が大き過ぎては、かえって秩序を乱しかねないから、変更は「微調整」に留めることが肝要である。

保守主義者は…新たな規則を考え出すことよりも、既に手にしている規則を守らせることの方を選ぶだろう。彼は、規制の修正は、それが反映しようとしている状況の変化が、いくらか固まってきたということが明白になるまでは、始めないでおくのが適切だと考えるだろう。(同)

 社会秩序の乱れは、独り<規則>が時代に適合しなくなったとだけ考えるのは早計であり、人々が法令遵守(じゅんしゅ)を怠っていることによるかもしれない。この見極めが大事である。後者の場合、緩んだ規律に合わせ、安易に<規則>を変更するのではなく、規律を引き締めることの方が優先されるべきだろう。

彼は、状況の要求するものを超えた変化の提案には、疑いの目を向けるだろうし、為政者が大きな変化をもたらすために尋常ならざる権力を要求し、その発言が「公共の福祉」とか「社会正義」とかといった一般的な事柄に結びついている場合や、よろいをまとった社会の救済者が、退治すべきドラゴンを捜している場合にも、それに疑いの目を向けるであろう。彼は、変革を行うべき時機について注意深い考慮を払うことが、妥当だと考えるだろう。(同、pp. 228-229

 社会秩序の乱れを修正しようとするのか、社会体制を根本的に変更しようとするのかをしっかり見極めることが大切である。後者の場合、変化は大きなものとなり、社会秩序は大きく乱れるだろう。地に足の着かぬ一足飛びの社会変革は、うまくいくかどうかはやってみなければ分からない危険を伴うものであり、逆に、変革によって破壊され、確実に多くのものが失われる。要は、割の合わぬ「博打(ばくち)」でしかない。

要するに彼は、政治というものを、価値ある道具を新しく永遠に備えつけるための、機会だとみなすのではなく、一組の価値ある道具を時々修繕しては調子を維持していくという、活動だとみなす傾向があるであろう。(同、p. 229

 このままでは駄目だから、「理想」に向けて社会を変革しなければならないとするのか、それとも、紆余曲折はあったにせよ、これまでどうにかこうにかやって来られたことを良しとするのか、どちらを選択するのかが問われるのである。

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