オークショット「保守的であるということ」(9)使い慣れた道具

保守的性向が他のいかなるものよりも常に適合的になる場合とは、進歩よりも安定性の方が有益なとき、憶測よりも確実性の方が価値のあるとき、完璧なものよりも慣れ親しんだものの方が望ましいとき、真理であるかも知れないがそのことが論争の的になっているものよりも、誤謬(ごびゅう)だということで意見が一致しているものの方が優っているとき、治療よりも病気の方が耐えやすいとき、期待そのものの「正当性」なるものよりも期待を満足させることの方が重要なとき、そして、規則が全くなくなるおそれがあるよりは、何らかの種類の規則のある方がよいとき、であろう。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 212)

 このオークショットの指摘は、<保守的性向>とは何かを考えるに当たって、非常に有益な具体的事例だと言えよう。要は、現状がたとえ不十分だと思われても、あるいは、現状がいかに不満であっても、現状のすべてが駄目なわけではないのであるから、これらをすべてチャラにして、ただ頭の中だけで成り立っている世界に飛び込むというのがどれほど危険であり、馬鹿げたことであるかということである。

 一般に、諸々の道具に関する我々の性向は、諸目的に対する我々の態度よりも保守的であり、それは両者の区別にふさわしいものだと言うことができる。言い換えれば、道具は目的よりも変革を受けにくいのであり、その理由は、道具とは、稀(まれ)な場合を除けば、まず特定の目的に合わせて作られ、しかるのちはほったらかしにされる、というものではなく、諸目的全体に合うように作られたものである、ということにある。そしてこのことが理解されるのは、ほとんどの道具にはそれを使う腕前が必要とされ、その腕前とは、その道具を実際に使うことやその道具に慣れることから切り離すことができないものだからである。良い腕前を持っている人とは、水夫であれ調理師であれ、会計士であれ、手持ちのいくつかの道具を使い慣れた人のことである。実際、大工は、大工達の間で広く使われている種類の道具であっても、自分のものでないものを使うよりは自分自身の道具を使った方が、普通は腕が揮(ふる)えるし、弁護士は、ポロックの『組合法』にせよ、ジャーマンの『遺言法』にせよ、(書き込みを入れた)自分自身の蔵書の方が、他のどれよりも容易に使いこなすことができる。道具の使用の本質は使い慣れることにあり、それゆえ人間は、道具を使用する動物である限り、保守的性向を有するのである。(同、p. 213

 使い慣れた道具を使えばこそ、自分の能力が発揮できるのであって、道具を新しいものに変えてしまっては、自分の力が出し切れなくなってしまう。新しい道具を使いこなせるようになって初めて<進歩>と言えるのだ、ということなのかもしれないが、今ある自分の能力を捨て、使いこなせるようになるかどうか分からない新たな道具に飛び付く人が果たしてどれくらいいるのだろうか。

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