オークショット「人類の会話における詩の言葉」(15)スコレー(閑暇)

《だが、智を求める営みよりも、智を働かせる営みのほうが一層快適であるのが至当であろう。また、いわゆる自足性の最も多分に存するのは観照的な性質の活動に関してでなくてはならない。勿論(もちろん)生に必須なもろもろの事物は智あるひとも正しいひとも爾余(じよ=それ以外)のいかなるひとびともこれを要することは事実である。だがこのような事物に事欠かない場合、正しいひとならば、やはり、正しい行為をなすべき相手のひとびとやそれを共にすべきひとびとを要するし、節制的なひととか勇敢なひととかその他それぞれもこれと同様であるのに反して、智あるひとは、たとえ自分だけでいても、観照的な活動を行なうことができるのであり、智あるひとであればあるほど、ますます然(しか)りである。その働きを共にするひとびとを有しているならばおもうに一層いいであろうが、それでもやはり、かかる活動を行なっているひとは、最も自足的たることを失わない。また、この活動のみはそれ自身のゆえに愛されると考えられるであろう。

まことに、この活動からは観照を行なうという活動それ自身以外の何ものも生じないが、これに反して、実践的な諸活動からは、われわれは多かれ少なかれその活動それ自身以外に得るところがあるのである》(「二コマコス倫理学」高田三郎訳:第10巻 第7章:『世界の大思想4 アリストテレス』(河出書房新社)、p. 223

 観照的活動は、誰の手も借りずに、ただ自分一人だけで行うことが出来る。また、自足的である。

《幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。けだしわれわれは、閑暇(かんか)を持たんがために閑暇なく忙殺されるのであり、平和ならんがために戦争を行なう。いったい、実践的なもろもろの卓越性の活動は政事とか軍事とかの領域において行なわれるものだと考えられるが、これらの領域についてのわれわれの働きは、そういった非閑暇的な性質を有しているのであって、殊(こと)に軍事的なもろもろの働きのごときは全然そうである。(何びとといえども、戦争することのために戦争することを選ぶとか戦争を挑発するとかは、しないのである。実際、もし戦闘や殺戮(さつりく)の行なわれることを目的に、親しきひとたちを敵にまわすようなひとがあるならば、これは全くの吸血鬼だと考えられるに相違ない。)

政治家の行為も非閑暇的な性質を有しているし、またそれは、政治するということそれ白身とは別に、覇権とか、名誉とか、ないしはまた「自分自身や国民たちにとっての幸福」――これは政治的な活動そのものとは別のものであり、われわれの探求においてもいうまでもなくこれとそれとは別のことがらと見なされている――を獲得せんとするものにほかならない》(同、pp. 223-224

 スコレーとは、単に「暇(ひま)」を意味するのではなく、精神活動や自己充実にあてることのできる「ゆとり」である。<幸福>には、このスコレーがなければならないということである。

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