オークショット「人類の会話における詩の言葉」(1)会話とは何か

会話は決して、外的な利益を産み出すべくくふうされた企てでもないし、賞をめぐって勝ち負けを争う競技でもなく、また、経典の講釈でもない。それは、臨機応変の知的冒険なのだ。会話においても、賭ごとの場合と同様、勝ったりすったりすることにその意味があるのではなく、かけること自体に意味があるのである。適切に言うなら、話言葉の多様性がなければ会話は不可能である。即ち、その中で、多くの異なった言葉の世界が出会い、互いに互いを認めあい、相互に同化されることを要求もされず、予測もされないような、ねじれの関係を享受することになる。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」:『政治における合理主義』(勁草書房)田島正樹訳、p. 239)

 「会話」(conversation)は、優れて保守的なものである。会話は、言葉を駆使する行為である。言葉は過去からやって来るものであるから、言葉を用いることは、すなわち、過去を継承することであり、過去を現在に蘇らせることだと言えるだろう。さらに、言葉遣いには「礼儀」や「作法」といったものも必要となるが、これも過去からの受け継がれてきたものに違いない。

我々が文明化された人間であるのは、自分自身と世界についての研究や蓄積された知識の相続人であることによるのではない。むしろ、原初の森の中ではじまり、いく世紀もかかって拡張され、徐々に分節化されていった会話という伝統の相続人であることによるのである。会話こそ、公共の場でも、我々各人の中においても、なおも存続しているものなのだ。(同)

 <自分自身と世界についての研究や蓄積された知識>とは、観念的であり、抽象的なものであり、掴み所のないものである。一方、会話は、実践的、具体的なものである。会話という場において、伝統や慣習が具体的に実践されることによって、我々は自らが<文明化された人間>であることを確認できるのである。

人間を動物から分かち、文明人を野蛮人から分かつものは、この会話に参加する能力であって、正しく推論したり、世界についての様々な発見をしたり、よりよい世界を考案するといった能力にあるのではない。実際、人間の祖先がかつて猿の類であった頃、あまりに長々とすわり込んで話をしたので、ついにはその尻尾がすり切れてしまったというように、我々人間が現在あるような姿になったのが、この会話(話が結論に至る事なく続く会話)への参加によるというようなことも、あり得ないことではないように思える。(同、p. 240

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