オークショット「人類の会話における詩の言葉」(4)「事実」であると認められた快のイメージ

欲求することの中でめざされているものは、単に快のイメージではなく、「事実」であると認められた快のイメージである。そして、このことは、「事実」と「非事実」との間の区別を前提しているのだ。架空のイメージの世界ですら、この区別を前提しているというのは、架空性とは、「非事実」であると認められるものに、それにもかかわらず「事実」の性格を付着することであり、それは、この観念的な付着が与える喜びを享受するためである。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 249)

 「事実」でないものに対し<快のイメージ>を抱くことなど出来ない。だから、「事実」であるかどうかが重要なのである。それは現実世界のものに留まらない。架空世界のものにおいても、「事実」であると架空しなければ、<快のイメージ>は得られない。

また「非事実」は幻想と同一視するわけにはいかない。幻想とは「事実」を「非事実」と誤って受け取ったり、「非事実」を「事実」と受け取ってしまうことである。(同)

 詰まり、「事実」と「非事実」とを取り違えたものが<幻想>であり、<幻想>と「非事実」は同じものではないということである。

「事実」と「非事実」との区別は、異なる種類のイメージ同士の間の区別であり、イメージではない何物かと、単なるイメージとの問の区別なのではない。そしてそれ故、我々には時にはあるイメージを「事実」と認めるべきか否かはっきりしないことがあり、それが疑わしい時には、我々は結論に至るために、ある一連の問いを自問してみるのが常である。にもかかわらず、この種の反省による決定がいつも必要なわけではない。実際もし「事実」と「非事実」とが既に認定されてしまったようなイメージの世界に精通しているのでなければ、そんなことは不可能であろう。

 「事実」か「非事実」かの区別が難しい時、反省により決定するわけだが、もし「事実」と「非事実」とが既に認定されてしまっている場合、その<イメージの世界>に精通しているのでなければ、区別することは出来ないだろうということである。

自己は、無規定のイメージの世界に目覚め、しかる後それらのあるものを「事実」として弁別しはじめるというわけではない。「事実」の認定は、一般により原初的なイメージ生成活動の上に随伴するような活動ではない。それは、何ら特別のはじまりをもたず、我々がさしたる反省を加えもせずにそこへと常に関わっている活動であり、この点に関して我々がいかに教育を積もうと、決してこの関わりのための装置を欠くことはないのである。 

そればかりか、「事実」として認知された一連のイメージは、すべてがすべて同じ種類の「事実」として認知されるのでもない。例えば「実践的事実」の決定要因は、一般的に言って実用的なものである。つまり、イメージが「事実」であるのは、それが(快であれ苦であれ)欲求する自己のさらなる活動のために定め置かれた「事実」として認定されることによるのである。欲求の停止としての死は、すべての反発の象徴である。一言で言えば、実践的活動に知識は存在するが、それは力のための知(scientia propter potentiam)なのである。(同、pp. 249-250

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