オークショット「保守的であるということ」(12)「足るを知る」こと
保守的性向――の源泉は、人間の環境の現在の状況を受容するという態度の中に見出すことができる。その状況とは…我々には自分自身で選択を行い、かつそうすることに幸福を見出そうとする傾向があるということ、各人は情熱をもって多様な企てを追求しており、また各人は多様な信条を、それだけが正しいとの確信とともに抱いているということである。そこでは、創意工夫がなされ、絶えず変化が起こり、いかなる大がかりな計画も存在せず、過剰、活動の行きすぎ、そして形式にとらわれない妥協があった。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 223)
現状を受け容(い)れること、それこそがまさに保守的性向である。勿論、これは現状が申し分ないということを意味しない。不十分な点、不満な部分がないわけではない。が、不平不満を膨らませていては、自分が不幸になるだけだ。
《禍(わざわい)は足るを知らざるより大は莫(な)く、咎(とが)は得んと欲するより大なるは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る》(福永光司『老子 下』(朝日文庫):第46章)
(災禍(わざわい)は君主の飽くなき欲望が最大で、咎(つみ)は物欲ほど大きなものはない。だから結論を言えばこうだ。足ることを知ることの豊かさは、いかなる時も常に満ち足りている、と)
統治者の職務とは、それに服する人々に対してそれぞれの抱いている信条やそれぞれの行っている活動とは別のものを押し付けることではないし、彼らを教育したり育成したりすることでも、他のやり方で彼らをもっと良くしたり、もっと幸福にしたりすることでもないし、また彼らに指図することでも、彼らを行動へと駆り立てることでも、いかなる衝突の場面も生じないようにと彼らを指導したり、彼らの諸活動を整序したりすることでもない。(オークショット、同)
ここで否定されているのは、社会主義における統治者のものである。社会主義には、唯一の「正解」がある。統治者はその「正解」を人々に強要し、教育を通して刷り込むのである。
統治者の職務とは、単に、規則を維持するだけのことなのである。この活動は特殊で限定的なものであり、他の活動と結合させられるや、それが何であろうとすぐに自らの本来の姿を損なってしまうものであり、しかも、我々の環境においては不可欠のものである。規則を維持する者の典型は、試合において規則を働かせることを仕事としている審判員、あるいは、既知の規則に従って討論を司りはするが、自分はそれに加わることのないという、議長である。(同)
自由主義の統治者は、社会主義の統治者のように、人々を画一的に規制統御するわけではない。また、直接社会の活動に参加するわけでもない。人々の活動が公正に行われるように規則を定め、これを維持すること、詰まり、活動の場の設定整備が職務なのだと言えよう。
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