オークショット「保守的であるということ」(16) 節度

 或る人達にとっては、「政府」とは権力の貯蔵所として現れてくるものであり、彼らはそれに刺激されて、それをどのように利用することができるだろうかと、夢を見るのである。彼らは、様々な要素を含んだお気に入りの企てを持っており、それが人類の利益に適ったものであるということを、心から信じている。そして、人を統治するという冒険として彼らが理解していることとは、権力のこの源泉を獲得し、必要であればそれを増大させ、そして、彼らのお気に入りの企てを仲間達に押し付けるのに、それを利用するということである。(オークショット「保守的であるということ」(勁草書房)、p. 229)

 1つ疑問がある。果たしてこの人達は、自分達の考える<企て>が<人類の利益に適ったもの>と思っているのだろうか、ということである。私は、オークショットの見解とは違い、この人達は政治を権力闘争と捉える傾向があり、権力を奪取した暁には、自分達が望む社会に誘導しようと考えているだけではないかと思うのである。自由主義は、自分と考え方が異なる人達の自由も法に従う限り認めるものであるが、社会主義は、世の中を画一化するものであり、個人に自由はない。

このように彼らは、統治というものを情念の手段として認識する傾向があり、政治の技術とは、欲求に火をつけ、それを監督することにあるとされる。要するに統治とは、他のいかなる活動とも――或る銘柄の石鹸を作って売ることとも、或る地域の資源を開発することとも、あるいは住宅団地を開発することとも――少しも異なるものではないと理解されており、ただ、統治の場合には、権力が(ほとんどの場合)すでにかき集められている、というだけのことであり、統治という企てが目立つ理由は単に、それが独占を狙っており、ひとたび権力の源泉を獲得してしまえばその成功が約束されている、という点にあるにすぎないとされるのである。(同、pp. 229-230

 自由主義における政治とは、人々が自由公正に活動できるようにするための場作り、環境整備である。一方、社会主義における政治とは、為政者のイデオロギーを画一的に遵守させる強制活動である。

統治者の仕事とは、情念に火をつけ、そしてそれが糧(かて)とすべき物を新たに与えてやるということではなく、既にあまりにも情熱的になっている人々が行う諸活動の中に、節度を保つという要素を投入することなのであり、抑制し、収縮させ、静めること、そして折り合わせることである。それは、欲求の火を焚くことではなく、その火を消すことである。そして、すべてこうしたことの理由は、情熱的であるのが邪悪なことで、温和であるのが有徳なことだからというのではなく、情熱的になっている人々が、相互に目的追求の失敗という状況に陥って脱げ出せなくなるのを免れるためには、節度を守ることが不可欠だからなのである。(同、p. 230

 情熱の過剰たる「熱狂」を抑え、「節度」を守らせることが社会秩序の安定には必要なのである。

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