オークショット「人類の会話における詩の言葉」(5)実践的自己
実践的活動においては、すべてのイメージが、自分の世界を構成し自らに快を与えるようなやり方で世界を再構成しつづけるのに関わる、欲求する自己の反映なのだ。(オークショット「人類の会話における詩の言葉」(勁草書房)、p. 250)
自らが快(快楽)を得るために世の中に働きかける活動、それが実践的(ないしは政治的)活動である。
実践的に活動するということは、様々の自己(人間の存在)の中の1つの自己としてのあり方である。にもかかわらず、諸々の自己が他の諸自己として認知されるイメージに対する関係は、当面は、「物」として認知されるイメージに対する関係と異なっているわけではない(その方がより扱いにくいとはいえ)。他の自己(他我)は、私が生産したものの消費者として、また私が消費するものの生産者として、あるいは私の企画におけるいろいろな形の手助けをする者、また私の快楽への奉仕者として、知られる。(同、pp. 250-251)
<実践的活動>を哲学的に分析すれば、少し取っ付き難いが、このように表現できる。
欲求する自己は、他の自己(他我)の存在する「事実」は認めるが、それを複数の自己としては承認せず、それらの主体性も認知しようとしないのである。即ち、その活動は、それをどう利用しようかという観点でのみ認識される。各自己は自分自身の世界に住み、イメージの世界はその自己固有の諸欲求に関係している。この活動の中では、他の自己をまさに他我として認めることが各自己にできないという意味での孤独は、まったく本有的なものであって、単なる偶然ではないのである。かかる自己たちの間の関係はまさに不可避に、「万人の万人に対する闘い」にならざるを得ない。(同、p. 251)
自己というものが、例えば、神のような客観的視座ではなく、私という主観的視座で捉えられる限り、「万人の万人に対する闘い」ということに成らざるを得ないということである。
欲求と反発ということにおける技巧とは、いかにして実践的自己を解体から守るのかを知ることであり、その技術によってこそ、適当な水準で「事実」が認知され、幻想からのがれ、苦より快を経験することができるのである。そして最少のエネルギー消費でもってその目的を達成しようとすることが、この技巧に属している。
このような意味で経済的であるということは、それ自体、欲求する自己と死との問に、より大きな距離を置くことであり、それ故、エネルギーをためこむことは、決して余計な仕事なのではない。エネルギーの単なる浪費(ただそれを享受するための出費)は、欲求する自己には緑のないもので、自己が認めるのは、ただ成就の満足か、失敗の無念さだけである。(同)
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