オークショット「政治教育」(2)政治的イデオロギー
純経験的活動として政治を理解することは、そもそも具体的な活動様態を、把(とら)えそこなっているゆえに、十全なものではない。それにそれは、往々にして不幸な結果をまねくような、あるスタイルでの社会の整序化への関与を追求するように、無思慮な人を導くという、附随的な欠点ももっている。もともと不可能なことをしようとするのは、破産的な企てと決っている(オークショット「政治教育」田島正樹訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 133)
政治とは、単なる<経験的活動>ではない。にもかかわらず、政治を<純経験的活動>だと思い込んでしまえば、その活動を価値付けるための何らかの<スタイル>が必要となる。
この政治理解に欠けているものとは、経験主義を実際に働かせるようにできるもの、科学においてちょうど個々の仮説にあたるようなもの、単なるその場その場の欲望よりも広い射程をもつような追求目標に他ならないことが、知られるだろう。またこれは、単に経験主義のよき相棒にとどまるものではなく、それなくしては、経験主義がまったく機能し得なくなるものであることが、見て取られるはずである。(同、p. 134)
経験主義的活動が<混沌>に陥らぬためには、諸々の活動を秩序付けなければならない。その枠組みの1つが「イデオロギー」と呼ばれるものである。
政治が自己運動的な活動様式として現象するのは、経験主義にイデオロギー的活動が先行し、それによって先導される場合である…私はただ、政治的イデオロギーが、経験主義(やりたいことをなすこと)にとって不可欠な要素として加えられた時、はじめて自己運動的な活動様式が現われ、従って、これこそ原理的に十全な政治活動の理解と見なされ得るのだ、という主張を問題にするだけである。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、p. 134)
様々な具体的活動が寄り集まって社会が変化し、秩序が更新されるというのではなく、秩序体系は予(あらかじ)め決められており、これに合わせて具体的活動が意味付けられ、制約される。これではおかしくはないかということである。
政治的イデオロギーとは、ある抽象的な原理または諸原理の関連せる組合せを意味し、あらかじめ個々の経験から独立に考案されたものである。それは、社会を整序することに関わる行動に先んじて、追求されるべき目的を定式化し、そうすることによって、いっそう鼓舞されるべき諸要求と抑圧または修正されるべきものとを、区別する手段を提供してくれる。
最も簡単な政治的イデオロギーと言えば、自由、平等、生産性極大、人種的純潔、幸福といった、単一の抽象観念である。そしてその場合、政治的行動は、社会の整序化が、選択されたかかる抽象観念に合致するように、またはそれを反映するように、配慮する試みとして理解される。(同)
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