オークショット「政治教育」(1) 経験的活動として政治

いかなる世代でも、その最も革命的な世代においてすら、成立している秩序は意識されるべきものをいつもはるかに越えているのであり、とってかわり得る新秩序などは、手直しを受けて維持されるものと比べて、わずかしかないのだ。新しいものは、全体の内のとるに足らぬ割合しか占めていない(オークショット「政治教育」田島正樹訳:『政治における合理主義』(勁草書房)、p. 130)

 革命だなどと大仰(おおぎょう)に言ったところで、意識的に変更できるものなど限られている。社会の秩序は、意識出来るものを遥かに超えた要因が複雑に絡み合って成り立っているのであって、革命と言っても社会の上辺を変更するにとどまり、根本は変えられない。

 ある人々の理解では、政治とはある経験的な活動と呼ばれるものである。社会の整序化に関わることは、毎朝目をさまし、「私は何をしたいのか?」とか「誰か他の者(私が喜ばせようと望む人)は、何をされたいか?」と自問し、ただそれをすることである。政治的活動についてのこの理解は、政策なき政治と言い得るかもしれない。(同、p. 132

 <経験的>(empirical)とは「刹那的」ということである。詰まり、そこには未来に対する展望もなければ、過去に対する省察もない。ただ、日常的な問題に対し場当たり的に「反応」しているだけである。

ごく簡単な考察だけでも、それは具体化の難しい政治の概念であることが明らかになろう。それは、そもそも可能な活動様式とも見えないのである。しかし、これに似たアプローチは、おそらくよく知られた東洋の専制君主の政治や、あるいは落書き屋や買収屋の政治になら、見出すことができる。しかし、その結果は、気まぐれに取り入る以外には何も一貫したことのない、混沌(こんとん)でしかないと思われる。(同)

 活動の視点が「今」にしかない。そこには「時間」の観念がない。だから物事が時間軸によって整序されない。過去からの積み重ねもなければ、未来への応用発展もない。だから<混沌>状態に陥ってしまうのである。

純粋に経験的な行動として政治を理解することは、それを誤解することである、なぜなら、経験主義はそれ自身、そもそも何ら具体的な活動様式ではなく、それが具体的活動様式での手助けになり得るのは、それが他の何かと――例えば科学でなら仮説と――結合される場合だけだから、ということである。政治のこの理解について重要なことは、ここに政治へのある種の関わり方が見られるということではなく、それが、具体的自己運動的な活動様態を、どの活動様式の中にもある1つの抽象的側面でしかないものへと、誤解してしまっているということである…純経験的政治は、接近するに困難なものでも、排除されるべきものでもなく、ただ不可能なものである。それは誤解の産物である。(同、pp. 132-133

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