オークショット「政治教育」(3) 予め考案されてしまっている価値
とはいえ普通は、単一の観念よりも、関連する諸観念の複合した、1つの図式の必要が認められるものであり、そのような観念体系の例を示せば、「1789年の諸原則」とか「リベラリズム」「民主主義」「マルクス主義」「大西洋憲章」といったものである。これらの諸原理は、(しばしばそう考えられるように)絶対的なものとか、確固不壊のものと見なされる必要はない。ただそれらの価値は、あらかじめ考案されてしまっているということにある。(オークショット「政治教育」(勁草書房)、pp. 134-135)
実際の活動に先んじて、活動の意味が予言されているかのように、既存のイデオロギーに照らし合わせ、何か齟齬(そご)があればそれを補正し修正を施(ほどこ)して整合性を図ろうとする。それが政治活動だというのは<誤解>ではないかということである。
何を追求すべきかということを、いかに追求すべきかということから独立に、それらは理解させることができなければならない。政治的イデオロギーは、「自由」とか「民主主義」とか「正義」が何であるかという知識を、前もって与えると自認し、このようにして、経験主義が実際機能し得るようになる前提を作り上げるのである。(同、p. 135)
例えば、予(あらかじ)め<自由>とは何かについて抽象的概念が植え付けられ、その概念の枠組みの中で自らの活動が自由に与(くみ)するものなのか、抑圧的なものなのかを把握するわけである。言い換えれば、<自由>とはいかなるものかという固定観念に縛られた状態で、活動するということである。
経験主義が機能し得るのは(そして、具体的な自己運動的活動様態が現われるのは)経験主義に、この種の先導が付け加わった場合、即ち欲求に加えて、欲求だけからは生じ得ない何かがそこにある場合、というものである。(同)
詰まり、経験主義はイデオロギーの枠組みの中で意味をもつのである。
政治的活動がこのように理解される時…第1に要求されるものは、選ばれた政治イデオロギーについての知識――追求されるべき諸目的の知識、我々がなそうと欲することの知識などである。もちろん、我々がこれらの目的を成功裏に追求し得るためには、他の種類の知識もまた必要とするだろう。例えば、経済や心理についての知識など。しかし、求められる知識全ての種類に共通した特徴は、それらが、社会の整序化に関わる活動に先んじて保証され得る、または保証されるべきだ、ということである。そして、それに適った種類の教育とは、その中で選ばれた政治的イデオロギーが教えられたり、学習されたりし、また成功するために必要な、諸々の技術が獲得されるようにする教育、ということになろう。(同、p. 135)
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