ハイエク『隷属への道』(30) <高次の目的>の胡散臭さ
集産主義者の立場に立てば、反対意見の存在を許さずそれをむりやり圧殺することとか、個人個人の生活や幸福を完全に無視することとかは、高次の目的の達成という基本命題がもたらす、当然で不可欠な帰結にすぎない。集産主義者は自らこれを認めるだろうし、むしろ自分たちの体制は、個人の「利己的な」利益が社会の目的の十全な実現を妨げることを許しているような体制より、はるかに優れているとさえ主張するだろう。こういった考えの源を作り出したドイツの哲学者たちも同様で、彼らは繰り返し、個人的な幸福に向けて努力すること自体が不道徳であり、課せられた義務を遂行することのみが称讃に値すると述べてきたが、たとえそういった考えが異なった伝統のもとに育った者にはどれほど理解しがたいとしても、彼らはまったく心底からそう思っていたのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 193-194)
私は、この<高次の目的>の胡散(うさん)臭さが気に懸かる。<高次の目的>とは言い換えれば「理想」である。が、「理想」はあくまでも空想の世界のものでしかない。
《共產主義社會のより高い段階において、すなわち分業の下における個々人の奴隸的依存、それとともにまた精神的勞働と肉體的勞働との對立(たいりつ)が消滅した後、勞働が單に生活手段でなくて、第一の生活の必要にさへなつた後、個々人の全面的發展とともにまた生產力が成長して協同組合的富のすべての源泉が溢流(いつりゅう)するに至つた後――その時はじめて狭隘(きょうあい)なブルジョア的權利の地平線は全く踏み越えられ、そして社會はその旗にかう書きつけるであろう、各人はその能力に應じて、各人にはその必要に應じて!》(カール・マルクス『ゴータ綱領批判』(岩波書店)西雅雄訳、p. 29)
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことが<高次の目的>とされた共産主義国樹立という壮大な社会実験は見事に失敗した。理想と現実を履き違えたことが失敗の最大の原因だと言えようが、そもそもこの理想は只の妄想ではなかったのかという疑いもある。<平等>に固執するあまり<自由>が制限され社会の活力が失われてしまった。平等は平等でも「貧しい平等」では意味がない。共産主義思想はそのことに関して余りにも頓着が無さ過ぎた。「頑張ってみんなで貧乏になりましょう」というのが<高次の目的>の実質的な中身などというのでは悪い冗談にしかならないのである。
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