ハイエク『隷属への道』(24) 経済的保障と自由
名誉や地位はほとんど国家の俸給(ほうきゅう)下僕(げぼく)になることでしか得られないようになったら、また、割り当てられた義務を果たすことの方が、自分が役立つような分野を自ら選択することよりも称讃に値するものとされるようになったら、また、国家の階級制度の中に組み込まれない職業や、固定的な所得への権利を伴わない職業は、地位の低い、むしろみっともないものと見なされるようになったら、そこでも多くの人が経済的保障より自由を選び続けるだろうと期待するのは、虫がよすぎる話である。従属的な地位で保障を得ること以外の選択の道が、この上なく不安定な職業でしかなく、そこで成功しようが失敗しょうが等しく軽蔑されるだけだとしたら、自由を犠牲にして保障を選ぶ誘惑に打ち勝てる人は、まずわずかしかいないだろう。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 170)
計画主義とは、当局の指示に従うことで<経済的保障>が平等に得られる体制である。が、それは当然<自由>を放棄することを意味する。<自由>を放棄しなければ<経済的保障>は得られない。否、それどころか、社会で生きていくことも難しくなってしまうだろう。
状況がそこまで進んでしまえば、自由はまったくのところ嘲笑(ちょうしょう)の的でしかなくなるだろう。というのも、そこでは自由は、この世におけるほとんどのよいものを犠牲にすることでしか、獲得できないものとなってしまうだろうからだ。そのような状況になれば、ますます多くの人が、経済的保障ぬきには自由は「持つに値しない」と感じるようになり、保障のために自由を喜んで犠牲にするようになったとしても、ほとんど驚くべきことではない。(同、pp. 170-171)
ベンジャミン・フランクリンは言った。
Those who would
give up essential Liberty, to purchase a little temporary Safety, deserve
neither Liberty nor Safety. -- Pennsylvania Assembly: Reply to the Governor, 11
November 1755
(一時的な安全を少し獲得するために、本質的な自由を手放すような人々は、自由であれ安全であれ受くるに値しない)
どんな民主的な統治者であっても、国民の経済活動を計画化し始めるやいなや、独裁的な権力をふるうか、それとも計画を放棄するかという二者択一に直面してしまうのと同様に、どんな全体主義的独裁者も、その体制を運営し始めるやいなや、通常の道徳を無視するか、それとも運営に失敗するかの二者択一をせざるをえなくなるだろう。まさにそのゆえにこそ、全体主義へと向かっている社会においては、不道徳で自己抑制力のない人間が権力の座へ登るようになるのである(ハイエク、同、pp. 175-176)
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