ハイエク『隷属への道』(28) 権力は腐敗するもの

アクトン卿は「権力は腐敗する」という有名な言葉を遺(のこ)している。

I cannot accept your canon that we are to judge Pope and King unlike other men, with a favourable presumption that they did no wrong. If there is any presumption it is the other way against holders of power, increasing as the power increases. Historic responsibility [that is, the later judgment of historians] has to make up for the want of legal responsibility [that is, legal consequences during the rulers' lifetimes]. Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely. 

Great men are almost always bad men, even when they exercise influence and not authority: still more when you superadd the tendency or the certainty of corruption by authority. There is no worse heresy than that the office sanctifies the holder of it. That is the point at which … the end learns to justify the means. You would hang a man of no position, … but if what one hears is true, then Elizabeth asked the gaoler to murder Mary, and William III ordered his Scots minister to extirpate a clan. 

Here are the greater names coupled with the greater crimes. You would spare these criminals, for some mysterious reason. I would hang them, higher than Haman, for reasons of quite obvious justice; still more, still higher, for the sake of historical science…. -- Lord Acton, (John Emerich Edward Dalberg) Letter to Archbishop Mandell Creighton (Apr. 5, 1887)

(ローマ法王や国王は、少しも悪事を働かなかったと都合好く憶測し、他の人とは違う判断をすべきだというあなたの教会法を私は受け入れられません。憶測するとすれば、権力が増せば増すほど増大する権力を保持する者たちに対するものです。歴史的責任(つまり歴史家の後世の判断)は、法的責任(つまり支配者の存命中の法的結果)の不足を補わずにはおれない。権力は腐敗するものであり、絶対的権力は絶対腐敗するのです。

偉人は、権威ではなく影響力を行使する場合でも、常に悪人です。権威によって腐敗しがちなこと、必ず腐敗することをさらに付け加えるなら尚更(なおさら)です。役職がその保持者を神聖化することほど悪い異端はない。そういうことだから…目的が手段を正当化するのです。あなたは地位のない人を絞首刑にするでしょう…しかしもし聞いたことが本当なら、エリザベスは看守にメアリーを殺すよう頼み、ウィリアム3世はスコットランドの大臣に一族を絶滅させるよう命じました。

ここに、より大きな罪と結びついた、より大きな名前がある。あなたはこの犯罪者たちを何らかの不可解な理由で容赦するのでしょう。私なら、一目瞭然の正義によって、ハマーンよりも高く彼らを吊るすでしょう。歴史科学のためなら、尚更より高く…)

 <絶対的権力は絶対腐敗する>。だからこそ権力集中は避けなければならない。

権力を分割し分散させることこそ権力の絶対的な量を減少させるのであり、その意味で競争体制こそ、人が人に対して行使する権力を分散させることで、権力を最小化させるように工夫された唯一の体制なのである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 188

 権力の大小の問題のみならず、権力がどこにあるのかということも重要である。

 経済的目的と政治的目的を分離することが個人の自由の保障にとってどれだけ不可欠であるか…経済的権力と呼ばれているものは、確かに強制の道具ともなりうるものではあるが、それが民間の個人の手に分散されているかぎり、排他的権力にも完全な権力にもならず、個人の全生活を包括する権力にもならない。しかしそれが中央に集められ、政治権力の道具とされる時、それは奴隷制とほとんど区別しがたい権力への隷属を創り出してしまうのである。(同、p. 189

 中央に権力が集中すれば、個人の自由は奪われ、社会秩序も自由から抑圧へと一変するだろう。

集産主義の道徳体系は、個人の良心がそれ自体の法則によって自由に発動することを許しておらず、また、状況のいかんにかかわらず個人の行動を抑制したり承認したりする、一般的な法則もない(同)

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