ハイエク『隷属への道』(26) 平等は野蛮化・低俗化
第1に、一般に教育や知性の水準が高くなっていけばいくほど、人々の考え方や趣味嗜好は多様になっていき、ある価値体系に対して人々が意見を一致させる可能性が少なくなっていくのはおそらく間違いない。このことから推論すれば、もし人々の間に高度の一様性や相似性を見出したいのであれば、より道徳的・知性的でないレベル、より原始的で「共通」の本能がむき出しになる部分へと、視点を降ろしていかなくてはならないことになる。断わっておくが、このことは人々の大半が低い道徳的基準しか持っていないことを意味するのではない。同じような価値観を持った人々によって構成される最大のグループは、低い道徳的・知性的水準を持った人々の集まりである、ということを意味しているにすぎないのである。言ってみれば、最大の人々を一致させられるのは一番低い分母である、ということである。つまり、ある人生観・価値観を他者に押しつけることができるほどに強力な、多人数のグループが必要とされるのであれば、それは決して、高度にバラエティに富んで洗練された趣味時好を持った人々から構成されるのではなく、悪い意味での「大衆」に属する人々、最も非独創的・非独立的で、自分たちの理想を数の力でごり押しすることも辞さないような人々によって構成されるだろう、ということである。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 179-180)
平等とは、「野蛮化」ないしは「低俗化」である。我々は、日々努力を積み重ね文明社会を築いてきた。が、平等を主張すれば、洗練さや高尚さは差別的要因として封印しなければならなくなる。例えば、100点満点のテストで最低点が20点だったとしよう。このテストに<結果の平等>を求めれば、到達度評価的に20点以上はすべてA判定のようなこととなるだろう。詰まり、頑張って日々勉強を怠らず、テスト勉強もしっかりやった生徒も、日々の勉強から逃げ、一夜漬けさえせずにテストに望んだ怠慢な生徒も平等に扱おうということである。「下方平均化」こそが<平等>なるものの本質である。
独裁をめざす者は、従順な、だまされやすい人々を根こそぎ支持者に抱き込むことができるだろう。これらの人々は、自分自身の確固とした信念を持っておらず、その耳に大声で何度も何度も吹き込まれれば、どんなお仕着せの価値観であろうが受け入れてしまう。こういった、物事をぼんやりと断片的にしか考えず、他人の考えに動かされやすい人々、あるいは、情熱や感情にたやすく駆られてしまう人々が、全体主義政党の下部党員の数を増やしていく(同、p. 180)
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