ハイエク『隷属への道』(29) 社会が変われば倫理も変わる
個人主義的倫理による支配は、多くの側面で厳密さを欠くかもしれないが、普遍的・絶対的である。すなわち、それはある一般的な形の行為がどうあるべきか、どうあってはならないかを規制するが、その際その行為が究極的にめざしている目的が善か悪かは一切問わないのである。詐欺、窃盗、暴行、背信といったことは、それによって実害があったかどうかに一切関わりなく、悪とされる。たとえそれが誰にも害を及ぼさなくとも、あるいは崇高な目的のために行なわれたにしても、それらが悪であるという事実に変わりはない。われわれは時に、いくつかの悪の中からどれかを選択せざるをえない事態に立たされることがあるにしても、そこで選択したものがやはり悪であることは変えられない。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、p. 190)
こんな当たり前のことを確認しなければならないのは、集産主義社会ではこの当たり前が通用しないからである。
「目的は手段を正当化する」という原則は、個人主義的倫理では、あらゆる道徳の否定と見なされる。ところが、これに対し、集産主義の倫理では、この原則こそ最高の倫理規範となるのである。首尾一貫した集産主義者にとっては、「全体のための善」に奉仕することであれば、あえてしてはならない行為は何もない。というのも、「全体のための善」こそが、何がなされるべきかの唯一の判断基準であるからだ。(同)
社会が変われば倫理も変わる。このことを前提としない異国の人達との外交など有り得ない。また、社会が異なるだけで人々の価値観は変わらないなどと考えることも甘いと言わざるを得ない。集産主義国の人達の判断基準は「全体のための善」でしかなく、嘘を吐(つ)くことや約束を守らないことが悪い事だと考えない人達がいるということを分かった上で交際すべきなのである。
集産主義の倫理が最も明白に表現されている概念に、「国家理由」という概念があるが、それはまさしく、望ましい目的にとってその行為が適しているか、つまりは都合のいいものかどうかという観点以外に、どんな制約も存在しない、という典型例である。この「国家理由」、つまり国家の利益を最優先するという考え方は、国と国との関係においては当然の原則であるものだが、それが集産主義国家内では個人と個人の関係に対しても同様に適用されるのである。そこでは、その共同体が自ら定めた目的、あるいは上位者が個人に達成するよう命令した目的にとって必要であるなら、市民はいかなることもなすことが許され、また個人の良心がその遂行を妨げるようなことがあってはならないのである。(同、pp. 190-191)
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