ハイエク『隷属への道』(33) 目的のためには手段を選ばず
集産主義者の目には…達成される偉大な目的しか見えないのであり、その目的によってすべては正当化されるのである。なぜなら、社会の共通目的の追求にとっては、個人の権利や価値に基づく制限は存在しないのだから。(ハイエク『隷属への道』(春秋社)西山千明訳、pp. 194-195)
社会主義の<偉大な目的>とは、「平等社会」の実現ということになるのであろう。が、それは表向きの<目的>であって、裏に隠されたある意味で真の<目的>とは、資本主義に勝利するということなのではないか。言い換えれば、資本主義は間違っていた、自分たちの考えの方がやはり正しかった、ということを証明することにあるのだと思われる。が、社会主義はこの戦いに敗れた。
全体主義国家の大衆は、ある理想――われわれには嫌悪感しか抱かせないものであるにせよ――に対して非利己的な献身をしているのであり、その理想こそが今述べたような行為を容認したり、あるいは自ら実行したりするよう大衆をしむけるのである。それゆえ、彼らにはある種の弁護の余地もあろうが、全体主義政策を現実に進めている者たちにはそのことはあてはまらない。
そもそも、全体主義国家を運営していく側に立ってその有用なアシスタントとなるためには、ただ単に、種々の不道徳な行為を正当化する理屈を受け入れる覚悟があるというだけでは十分ではない。むしろ、与えられた目的を達成するために必要だと思われるなら、これまで知っていたあらゆる道徳的規範をも積極的に破っていく覚悟がなくてはならないのである。
目的を決定するのは最高指導者のみであるから、その道具となって働く人々は、個人の道徳的信念を持つことは許されない。何にもまして要求されるのは、指導者個人に無条件に全存在をゆだねることであり、その次にくることは、どんな原則も持たず、文字通りすべてを実行する用意をしておくということである。自分が実現したいと思う理想も、指導者の意図を妨害するような善悪の考えも、持ってはならない。(同、p. 195)
まさに「目的のためには手段を選ばず」ということである。マキャヴェリは言う。
《たとえその行為が非難されるようなものでも、もたらした結果さえよければ、それでいいのだ》(マキャヴェリ『政略論』第1巻9:『世界の名著16』(中央公論社)永井三明訳、p. 201)
が、これには次のような前提がある。
《こまかい心配りで国家を打ち建てていこうとする者で、私利私欲もなく、ただ公の役にたつことを念願し、自分の子孫のことよりは、祖国を第一とする人物にこそ、まさに絶対的な権力を手に入れるために奮闘してもらわなければならない。
だから、その人物が王国を打ち建てたり、あるいは、共和国をつくるのにどのような非常手段をとりあげるようとも、道理をわきまえた人ならば、とやかくいってはならないのだ》(同)
果たしてこのような前提が集産主義者にあるのだろうか。
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