ハイエク『隷属への道』(17) 服従せざる者は食うべからず
政治的自由は経済的自由なしでは意味がない、とよく言われる。このことはまったく正しい―ただし、計画主義者たちが言っているのとはまったく逆の意味でのことである。経済的自由は、他のどんな自由にも先立つ前提条件であるが、社会主義者が約束するような「経済的心配からの自由」とはまったく異なっている。後者の自由とは、個人を欠乏から遠ざけると同時に選択の権利からも遠ざけることによって初めて獲得しうるものである。そうではなく、経済的自由とは、経済活動の自由でなければならない。もちろんそれは、選択の権利をもたらすとともに、それにともなう危険や損失、そして責任を、個人に課してくるのだが。(同、pp. 127-128)
計画主義者が言うところの「経済的心配からの自由」は、「結果の平等」を通して得られるものである。が、これは、結果が平等になれば自由競争による格差がなくなって競争の敗者となる心配がなくなるという、ただそれだけの話である。確かに、自由競争がなくなれば格差も生じなければ敗者も生まれない。が、同時に勝者も豊かさも生まれない。結果、「結果の平等」は貧しい社会の中での平等にしかならない。成程、平等が正義だとしても、社会が貧しくなり、自分たちの生活が苦しくなってしまっては元も子もない。
誰が誰を計画化し、誰が誰を統制・支配し、誰が人々の人生の位置を決め、誰が他からの割り当てをもらうに値するか。これらの問題が、最高権力のみが解決すべき中心的な問題として、必然的に生まれてきた(同、p. 128)
「結果の平等」は人工的なものである。したがって、誰かが結果を平等にするための指図をしなければならない。「結果の平等」は、結局、独裁者を生み出すだけである。
J・S・ミルは言う。
A fixed rule, like that of equality, might be acquiesced in, and so might chance, or an external necessity; but that a handful of human beings should weigh everybody in the balance, and give more to one and less to another at their sole pleasure and judgment, would not be borne unless from persons believed to be more than men, and backed by supernatural terrors. -- John Stuart Mill, Principles of Political Economy: With Some of Their Applications to Social Philosophy: Book II Chapter1 §4
(平等のルールのような固定化されたルールには嫌々従うかもしれないし、偶然や外的必然も黙認するかもしれない。が、一握りの人間があらゆる人を天秤にかけ、自分たちだけの喜びと判断で、人に多く与えたり少なく与えたりすることは、人間以上の存在と信じられ、神秘的恐怖に裏打ちされた人からでなければ耐えられないだろう)
次のトロツキーの言葉は、まさに<全体主義>の謂(いい)である。
《唯一の雇用主が国家である国においては、国家に反対することは、しだいに飢えていき、ついに死に到ることを意味する。昔の命題である「働かざる者は食うべからず」は、いまや新しい命題である「服従せざる者は食うべからず」によって、取って替わられてしまったのだ》(ハイエク、同、p. 153)
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